[自作小説] 短編:『もう一度、あのフィールドへ』

2017 年 1 月 20 日 Categories: オリジナル小説 |

以前書いた短編小説を加筆修正して、『Machina』と同じく公開。

あらすじ

 西野は高校野球、しかも甲子園で大活躍をする。しかし、その後の彼を待ち受けていた運命は――


 強烈な日差しが上空から降りそそぎ、地面からの照り返しで足元からも容赦のない暑さが込み上げてくる。だがそれ以上に、内側から発する〝熱さ〟のほうが遥かに大きく激しかった。
 西野洋平はマウンドに立っていた。周りからは、凄まじいまでの声援が飛び交い、異様なほどの熱気に包まれている。
 無数の視線が混合してひとつの迫力となり、フィールドに向かって一直線に押し寄せる。
「ニシ、大丈夫?」
 キャッチャーの花田が、自身も汗だくになりながらピッチャーの西野を気づかった。
「大丈夫っちゃあ大丈夫だけど……」
 ユニフォームの袖で、気休めに汗をぬぐう。
 延長一一回裏、2アウトながら一塁にランナーがいた。
 球数は、すでに一五〇球を超えている。今マウンドに仲間が集まり、そこへ伝令も来ているのは、監督がタイムをとったからだった。
「投げられるなら投げろって監督が」
 と、伝令の春山。
「でも、投げすぎだろ。もう限界だって」
「…………」
 ――いわれなくても、そのことは自分自身が一番よくわかっている。
 スタミナには自信があるほうだ。これまで徹底して走り込み、それを欠かしたことは一日たりとてなかった。
 だが、左の肩と肘は間違いなく限界に差しかかっている。
 異様に熱をはらんでいるのが自分でもわかるし、何より球に威力がない。
 悔しいが、ストレートを投げてもキャッチャーの手前でお辞儀している。
 マウンドの上に、沈黙の幕が下りた。
 いつもは明るいチームメイト。どんな窮地に追い込まれても冗談を言い合えるほどなのに、今ばかりは皆、何と言っていいかわからないでいた。
 ――俺のことを心配してくれているんだ。
 西野は、ひとつ大きく息をついた。
 今のチームには、主力となるピッチャーが自分しかいない。
 三年生には控え投手がひとりもおらず、二年生にさえ二人しかいない。あとは、一年生に三人いるだけだ。
 ベンチ入りしている投手は、そのうち三人のみ。しかも、この甲子園で通用するレベルにあるのは、たったひとりしかいない。
 答えは、初めから決まっていた。
 ――俺が投げる。
「大丈夫、あと二回くらいならなんとかなるって。だから次の回、かならず点取ってくれ」
 そう冗談めかして言うと、やっとチームメイトにいつもの笑顔が戻った。みんなでかけ声を出してから、野手たちは勢いよく散っていった。
 西野は一度、真っ白のロージンを手に取り、こころを落ち着かせた。
 ――とにかく、目の前のバッターを打ち取ればいい。
 ロージンを投げ捨て、相手と正対する。
 二番の左バッターだ。確か、今日は一安打しか許していないが、あれは強烈な当たりだった。
 引っぱらせたくない。もしライト方向へ抜けたら、一塁ランナーにサードまで行かれてしまうだろう。それだけは避けたかった。
 とにかく、相手のクリーンナップまで回すと苦しくなることはわかりきっている。慎重すぎるほどに慎重に投げるしかなかった。
 ランナーを気にしつつ、クイックで外角へのカットボールを放った。
 完全なボール。少し力みすぎたのかもしれない。
 それよりも、一塁ランナーに走る気配がないのに驚いた。
 もう2アウトなのだから、ここで刺されてもたいして痛くはないはずだ。反対に盗塁を成功させれば、一気にサヨナラのチャンスになる。
 ――サインが出てないのか?
 そんなことを気にしながら二球目を投げた。
 ストライクを取りにいったストレートだったが、低すぎる。
 ボール。2-0とカウントが悪くなってしまった。
 ――ランナーが走らない。
 相手のベンチは、無理をしてランナーをスコアリング・ポジションに進めるよりも、三・四番へつなぐことを優先して考えているのかもしれない。
 ここは、バッターに集中してよさそうだ。
 花田が出すサインは、もう一度カットボール。直球のコントロールの悪さに不安を覚えたのだろう。この状況では、変化球での外角攻めが当然のセオリーだ。
 自分のカッターは、スライダーの握りで直球の投げ方をする。
 次は、どうしてもストライクが欲しい。渾身の力を込めて、花田のミットを目がけて放った。
 しかし、
 ――真ん中に!?
 アウトコースへ投げたはずのボールが、インコースへ飛んでいく。それがゆるく変化して真ん中寄りへ入っていった。
 ――しまった。
 一瞬のうちに、投げた西野も受ける花田も、背筋に悪寒が走った。
 それはまぎれもなく、最悪の〝ホームランボール〟だった。
 金属バットの甲高い音がフィールドに鳴り響く。
 その直後、花田の背後でバックネットの揺れる音がした。
 ファウル。
 ――助かった。
 こころの底から安堵の息をつく。
 バッティングのうまい選手だったら、確実にとらえられていた。相手が二番バッターだったことに救われた格好だ。
 ――ファストボール系の球はもうきつい。
 カッターはもちろん、持ち玉のツーシームも厳しそうだ。思ったよりも腕に力が入らない。
 今は肩の張りよりも、握力の低下のほうが問題だ。
 ボールのコントロールがきかない。このままだと、一球一球冷や冷やしながら投げなければならなかった。
 捕手の花田もまったく同じ思いだったからこそ、サインは外角へのスライダー。皮肉にも、さっきのインコース寄りの球が相手を混乱させているかもしれないと踏んだ。
 その予想は当たった。投げた球はそれほど厳しいところを突いたわけではなかったが、相手バッターは完全に見逃してくれた。
 これでカウントは2-2。いよいよ勝負時だ。
 だが、決め球のツーシームは投げられそうになく、外角へのカッターもスライダーもさすがにもう無理だ。
 ――残るは、ゆるいカーブくらいか?
 追い込んでからのスローカーブはリスクをともなう。相手の意表を突ければいいが、もし読まれていたらこれほど打ち頃の球はない。
 だが、花田もそれしかないと考えているはずだ――そう思っていた。
「え?」
 思わず小声でつぶやいていた。
 サインはウエスト。つまり、外へ一球外せということだ。
 ――けど、3-2になるぞ!?
 花田が予想していることが何かはわかる。しかし、それが外れればフルカウントになって、完全にこちらが苦しくなってしまう。
 だが、迷いはすぐに吹っ切れた。すべてを割り切って投球動作に入る。
 ここまでずっと、あいつと一緒にやってきた。土壇場だからこそ、最後の最後まで信じたかった。
 次の瞬間、一塁ランナーが動くのが見えた。
 ジャックポットは、こちらに微笑んだ。
 外角高めへと外されたボールを受け、花田がセカンドへ向かってすぐさま投げた。
 最高の送球。
 ――アウト。
 西野と花田がほっとすると同時に、二人に笑顔が弾けた。

 一二回の表、1アウトからランナーが塁に出た。七番がバントで送り、2アウト・ランナー二塁。
 バッターは八番の花田。
 1-1からの内角ストレートをレフトへ弾き返し、ランナーは生還。待望のタイムリーが出た高城(たかしろ)学園が、ついに勝ち越しに成功した。
 しかし、高城学園には不安があった。投手・西野が限界を超えていることは、誰の目にも明らかだ。
 この一点を守りきれるかどうか――スタジアムの目は、そこに集中した。
 そんな中、西野は先頭打者をいきなり四球で塁に出してしまう。あまりに痛い。
 だがその後、四番、五番を内野フライに打ち取り、2アウトまでこぎつけた。
 相手がクリーンナップだったことがかえって幸いした。素直に送りバントでランナーに二塁へ行かれていたら、状況はまるで変わっていたかもしれない。
 余裕を持てたバッテリー。
 そして、追いつめられたバッター。
 その結果は、予測のできたものだった。
 ――空振り三振。
 その瞬間、延長十二回まで続いた熱戦の終止符がついに打たれた。
 好投手、西野を要する高城学園が、あれよあれよという間にベスト8にまで登りつめたことは、各種メディアを賑わせた。
 それと同時に、プロ野球各球団のスカウト陣も注目の度合いを高めていく。
 繊細さと強靱さを兼ね備えたその左腕に。

 無機的な建物のあいだを、朝の涼しい風が吹き抜けていく。
 まだ早い時間のせいか人通りはまばらだが、そこかしこから街の胎動を感じ、所狭しと並んだ家々を覆うように活気が少しずつ満ちていくのがわかる。
 高城学園のナインは、全員で散歩をしているところだった。
 試合の翌日だ。宿舎が街なかにあるせいで雑然としたところを歩くしかなかったのだが、朝の空気は気持ちよく、けっして不快なものではなかった。
 準々決勝へと進む大事な試合を勝ったあとなのだから、気分が悪いはずもない。
 西野は左肩を少し気にしながらも、いつもと変わらぬ様子で女房役の花田の隣を歩いていた。
「なんであのとき、ランナーが走るってわかった?」
 結果的にうまくいったものの、それがずっと不思議だった。
 あの状況でランナーが盗塁することは、普通ならまずない。単純に走るのならバッターが追い込まれる前にしていただろうし、そうでないならバッターに集中させていたはず。
 あのタイミングでの盗塁は、いくらなんでも中途半端すぎた。
 それでも、花田はそれを見事に予測してみせたのだ。
「ランナーが迷ってるみたいだったし」
 だから、あの状況でも無理をして走ってくると思ったのだと、花田はあっさりと答えた。
「走ってくれて助かった。あのままバッターと勝負するほうがきつかったかも」
「うん」
 勝負をしたくても勝負球がもうなく、もし次の三、四番につながれていたら、こちらとしてはどうしようもなかっただろう。
 ただ、まだ疑問は残っていた。
「相手の監督、何を考えてたんだろうな」
「たぶん、最初からサインは出してたんだろ。でも、走れなかったんじゃね?」
「なんで?」
「お前のクイックが早いから」
 西野は二球目まで、かなりランナーを警戒して投げていた。
 しかも左ピッチャー。ランナーが思いきったスタートを切れないのも無理はない。
 それより、と花田が再び口を開いた。
「お前、明日投げられんの?」
「投げられるっつーか、投げたいんだけど……」
 一晩明けて肩にまだ張りは残っているものの痛みはまったくなく、総計一六七球を投げたわりには体のほうにもたいして疲れは残っていなかった。
「監督が決めることだし。投げろって言われれば投げる」
 自分しかいないのはわかっている。
 ちょっと前までは甲子園まで来れただけで幸せに思っていたが、ベスト8まで来るとさすがに欲が出てきた。
 どうせなら、行けるところまで行きたい。
「にしたって、中一日なんて――」
 と花田がつづけて言おうとしたところに、後ろから駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。
 いつも伝令役を務めている春山だ。そういえば、寝坊して思いっきり準備が遅れてしまい、『後から追いつけばいいでしょ』と、苦しまぎれの言い訳をしていた。
 息を切らしながら、ようやくその小柄なチームメイトは西野たちのところまでやってきた。
 ――散歩になってない。
「あー、やっと追いついた」
「無理して追いかけなくてもよかっただろ」
「そんなこと言わないでよ。やっぱり、チームはひとつじゃないと」
 いつもひとつである必要はないのではないかと西野と花田は思わないでもなかったが、春山のためにあえて言わないでおいた。
「そういやあ、ニシのスマホだと思うけど、黒いやつがずっと鳴ってたけど」
「ああ」
 さすがに朝の散歩のときまで持っていく必要はないと思い、部屋の机のうえに置いてきた。
 別に見られて困るようなものが入っているわけでもない、いつもぞんざいに扱っていた。
「じゃあ、俺ちょっと先に戻ってるわ」
 特に急ぐ必要もないのだが、あえて宿舎に戻ることにした。この時間にわざわざ連絡してくる相手は、おおよその予想がついている。
 こころのどこかで、その電話を受け取りたくないという気持ちもあった。だがその一方で、受けるべきだとこころの底でもうひとりの自分が確かに言っている。
 幸い、散歩コースも終わりに近づいていたから、宿舎まではすぐだ。なぜかはやる気持ちを感じながら、二階の自分の部屋に向かった。
 ドアを開けたとき、黒塗りのスマホは当たり前だがすでに震えていなかった。そのことにわずかな失望を感じながら、ゆっくりとそれを手にとって開いた。
 履歴には、思ったとおりの人物の名前があった。先に電話して、後でメールを入れたようだ。
「――――」
 そこには、準々決勝進出への讃辞とともに、こちらへの当たりさわりのないことだけが書いてある。
 返信をする気が起きず、すぐにケータイを閉じた。
 それは、姉からのものだった。
 といっても実の姉ではなく、実際は母方のいとこだ。病で両親を相次いで失った自分を引き取り、これまで育ててくれた人だった。
 仲が悪いというわけではないものの、二人の関係はうまくいっていなかった。
 互いにどこか遠慮がちで、思いきってこころを開けない。家での会話は、まるで初顔合わせの役者が演技をしているかのようなものだった。
 どうにかしたいという思いはある。しかし、次の一歩を踏み出せない。そうこうしているうちに、四年という歳月が過ぎていた。
 姉が結婚していないのは、自分のせいではないかと以前から気がかりだったが、その理由を問い質すことができるほどには、二人の距離は短くなかった。
「ニシ、いるか?」
 ドアの向こうからかけられた声に、はっとする。
 なぜか慌ててスマホをジャージのポケットにしまい、ドアをすぐに開けた。
「お前ひとりか。ちょうどよかった」
 そこにいたのは、監督の幸田(こうだ)だった。しっかりと日焼けした顔に少し出たおなかという風貌は、いかにも〝高校野球の監督〟といった雰囲気だ。
 幸田は部屋に入ってくるなり、座布団の上にどっかと腰を下ろした。そういえば、監督が立っているところを試合中もあまり見たことがない。
 元は社会人の頂点まで登り詰めた選手のくせに、今はどうやらそれほど動くことが好きではないらしい。
「明日の試合のことなんだが――」
「先発のことですか?」
「おう、そうだ。で、お前、体のほうはどうだ?」
「疲れはほとんどないです。肩に少し張りがあるけど、いつもの投げ込みをした後と同じです」
「そうか、お前はよく一度に二〇〇球くらいの投げ込みをやってたからなぁ」
 そう言って幸田は笑うが、その顔はすぐに思案の色に変わった。
「でもな、ニシ。お前、昨日の試合だけでも一六〇球は放ってるだろ? 甲子園はスケジュールがきついし、予選から連投だからな。いくらなんでも……」
「大丈夫です」
 監督の言いたいことはわかる。しかし、自分としてはもう決断していた。
「次の試合も投げさせてください。ここまで来たんです、後悔だけはしたくないんです」
 他のピッチャーに任せることもできるが、それではもし負けたときに自分自身がまるで納得できない。
 今ここで身を引いたら、一生後悔することになる。そんな予感が自分の内側にあった。
 肩や肘に不安がないわけではない。それどころか、もしものときのことを考えると震えが来る。しかし、自分だけでなくチームのためにこそ今は投げつづけたかった。
「…………」
 即断即決の監督がめずらしく迷いを表に出していた。
 いつもはっきりとした性格で、時にその気性の荒さが裏目に出ることもある。叩かれた経験のある選手は、ひとりやふたりではなかった。
「監督、お願いします。決勝までずっと投げたピッチャーだって、今までたくさんいるじゃないですか。俺も、ずっとスタミナ作りと投げ込みをやってきたんです。次の試合もやれます」
「それはそうだけどな」
「監督!」
 幸田が西野の瞳を見た。
 その熱意の込められたぎらつくような視線を受け、幸田はふっと笑みを浮かべた。
「わかったわかった。なんやかやと言って、うちにはお前しかいない。最後まで任せる」
 西野も破顔一笑した。
 これで後悔せずにすむ。甲子園という最高の舞台にさらなる夢が開けてきた。
 しかし西野は、姉からのメールに『無理だけはしないで』と書かれていたことを完全に忘れていた。

 甲子園のスタンドが揺れている。ただし、それは相手チームの応援サイドだけだった。
 準々決勝の試合は、すでに五回までを経過していた。投手・西野は、ここまで騙だまし騙し投げてきたものの、すでに五失点。今も二人、ランナーを抱えている。
 名峰高校対高城学園の戦いは、大方の予想を裏切るかたちで進んでいた。
 高城学園は、初出場ながらも攻走守のそろった好チーム。一方の名峰高校は複数回の出場を誇るものの、今回のチームはベスト8まで残ったのが不思議なほど、総合的に物足りなさがあった。
 しかしふたを開けてみれば、初回からこれまでずっと後者が押していた。スコアも五対二とリードし、明らかに勢いに乗っている。今も下位打線ながら一塁と二塁に走者を出し、追加点のチャンスを迎えていた。
 ――こんなはずじゃなかったのに。
 マウンドに立つ西野は、したたる汗をグラブの先でうざったそうに払った。
 何もかもがうまくいかない。コントロールを重視しようとしてもボールは真ん中に寄り、球威を重視しようとしてもボールは弱々しい。
 もう限界だ。
 認めたくはないが、それがまぎれもない現実だった。
 苦しまぎれに外角へ変化球を投じる。それは相手の左打者にきれいに捉えられ、レフト方向へ流された。
 追加点か、と大半の観客が思ったそのとき、レフトから最高の返球がキャッチャーに返ってきた。あたりに鳴り響くミットの音。ランナーは慌てて三塁へ戻るしかなかった。
 しかし、これで満塁。もはや逃げ場はない。
「…………」
 西野は今の失投よりも、自分の試合前の判断が間違っていたことを痛感していた。
 ――考えが甘かった。
 まだまだ投げられると思っていた。
 夏の大会に入るまでに徹底して投げ込みをしてきたし、肩の張りもこれまでに経験してきたものと同じくらいでしかなかった。
 だが、いざ試合に入ってみると、腕が振れない。全身が重く、指先の感覚も鈍い。そのうえ、肘の違和感が回を追うごとに増していく。
 ――とにかく投げなきゃ……。
 自分しかいないのだ。つらくても苦しくても、自分が投げるしかない。
 バッターに集中しよう、と自分に言い聞かせるものの、その意識さえすぐに薄らいでしまう。
 疲れから来るものなのか奇妙な虚脱感に苛まれ、いやおうもなく集中力が途切れがちになる。
 投球モーションに入っても、無意識のうちに体が楽をしようとしてしまい、フォームが完全に崩れているのが自分でもよくわかった。
 腕が上がらず、中途半端に投げた力のないボールは外角へ大きく外れた。
 マスク越しにも、キャッチャーの花田が心配しているのがわかり、そのことになぜか苛ついた。
 左腕に痺れるような感覚がある。すでに危険なレベルに達していた。
 ――とにかく自分が投げる。
 セットポジションに入る。
 意地になっているのかもしれない。
 だが、みずから先発を志願したからには、最後まで投げきる。ベンチから交代を告げられない以上、そうするのがマウンドに上がった人間の務めだった。
 苦しまぎれに投じたアウトコースへの変化球。それは投げた瞬間、バッテリーを凍りつかせた。
 右バッターにとって一番打ち頃な、真ん中インコース寄りの甘いボール。
 次の瞬間、それは右中間へものの見事に弾き返された。
 三塁ランナーに続いて、二塁ランナーも還ってくる。西野が本塁のカバーに入る間に、一塁ランナーもサードベースを蹴った。
 走者一掃のツーベース・ヒット――予想できた当然の結果はしかし、直後に覆されることになった。
 センターからの最高の返球が内野に返ってくる。それをさらにショートがきっちりと繋ぎ、一切の無駄なく本塁の花田へ。
 クロスプレイ。
 一瞬の空白のあと、花田がミットを高々と上げると同時に主審がコールした。
「アウト!」
 返球は間に合い、三点目は許さなかった。だが2アウトながらも、まだ二塁に走者が残っている。
 それに、今の二失点は致命的だった。
 これで七対二。
 いくら大逆転の多い高校野球とはいえ、強豪ひしめく準々決勝での五点差というのは大きすぎた。
 うつむいたまま、西野がマウンドへ戻っていく。その足取りは明らかに重かった。
 ――なんでこんなことをしてるんだろう。
 ふと、そんな思いがよぎる。
 つらい。
 それなのに、どうして自分はまたマウンドに上がろうとするのだろう。
〝野球ガ好キダカラ〟
 そんなありきたりな言葉が浮かぶものの、自分の内側のどこかで、それだけでは納得できないと叫ぶ何かがあった。
 癖でロージン・パックを無意識に手に取って指先を白く染めたとき、背後に気配を感じた。
 花田が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。そして、ベンチからも伝令が向かってくるところだった。
 ――ここまでだ。
 降板する覚悟はできていた。
 四回と三分の二を投げて七失点、しかもスコアリング・ポジションにランナーを残している。先発の役目をまるで果たせていなかった。
 西野は天をあおいだ。そこには、はぐれ雲がぽつんと浮かんでいた。

 先発・西野のあとを継いだ二年生ピッチャーは、よくこらえていた。
 ランナー二塁のピンチも、バッターを外野フライに打ち取って切り抜け、その後もなんとか相手に追加点を与えずに投げ続けた。
 しかし、打線のほうがぱっとしない。打ち気にはやってしまっているのか、凡打をくり返し、ランナーを出してもまったく繋げない。
 これが二点差、三点差ではなく、五点差ついてしまったことの影響だった。
 ワンチャンスで返せる状況ならともかく、相手に大きくリードされている状況では集中打がどうしても必要になる。
 そういった意識が打者の心理にプレッシャーをかけ、パフォーマンスを鈍らせていた。
 ――自分のせいだ。
 ベンチで戦況を見守る西野は、おのれの責任の重さをいやおうなく感じさせられていた。
 せめて五失点でこらえていれば、まったく状況は違っていたはず。勝てるはずの試合を自分のせいで難しくしてしまった。
 必死になってベンチから応援するが、一度決まってしまった試合の流れは簡単には覆せない。アウト・カウントは確実に増し、失望だけが大きくなる。
 回を追うごとに焦りが募っていく。特に、自分たちではどうしようもないベンチにいるメンバーのそれは、フィールドに立つ選手よりもなおいっそう強く、ため息を抑えきれない者も多かった。
 試合は、いつの間にか最終回まで来た。
 スコアは五回以降、意外に動かず七対二のまま。それだけに、西野の後悔はますます深くなっていく。
 祈るような気持ちで、味方の先頭打者に視線を向ける。
 一球、二球と続けてボール。四球で塁に出てくれるのではないかと、期待感が高まる。
 だが三球目、低めのボール球に手を出し、内野ゴロ。あっさりと1アウトとなった。
「どうして……」
 疑問の声が口を突いて出てしまう。
 この状況では、とにかく塁にランナーをためることがセオリーのはずだ。それを、みずからボール球に手を出して凡退してしまうなんて。
 自分にはそんなことを言う権利がなんてないことは、重々承知していた。それでも、バッターボックスに入る選手にはなんとかしてほしいという正直な思いがあるのだから仕方がない。
 マウンドに上がっている普段よりも強い緊張を覚える西野の目の前で、この回二人目の打者はあっという間に2ストライクまで追い込まれた。
 今度はボールをよく見ようとしすぎて、打ち頃の球まで見逃してしまった。
 結果は、大半の人々が予想したとおりのものだった。
 すでに2ストライクだから際どいボールにも手を出さざるをえず、また内野ゴロ。ここまで快進撃を続けてきたチームとは思えないほど、この最終回の攻撃は淡泊だった。
 三人目の打者は、キャッチャーの花田。
 あいつなら何とかしてくれるんじゃないか、そんな思いをチームの全員が抱え、中でも西野はダグアウトの手すりにこれ以上ないほど力を込めた。
 初球はボール。二球目は外角いっぱいのスライダーでストライク。あれはしようがない。
 そして三球目――
 金属バットの甲高い音とともに、鋭い打球が三塁線方向へ飛んでいく。
 ヒットか、と誰もが思ったが、無情にもボールは白線の外側ではねた。
 ファウル。
 失意のため息が高城サイドにもれる。
 ――今のはとらえなきゃいけない。
 ベンチから見てもはっきりそれとわかるほどの甘い球。ほとんど真ん真ん中へのゆるいカーブだった。
 あれを引っぱってファウルにしてしまったということは、花田がかなり打ち気にはやっているということだろう。
 まずい。
 そう思っているうちに、相手ピッチャーはすでに投球モーションに入った。そして、投じたボールは、
 ――高めのストレート。
 西野には予測できていた。さらに、その結末も。
 バッターボックスの花田は、歯をくいしばってそれを向かい打とうとする。
 パンッ、と小気味のいい音があたりに響き渡った。相手のキャッチャーが高々とミットを掲げると同時に、名峰高校のナインは喜びを爆発させ、逆に高城学園のベンチは固く凍りついた。
 ――高めのボール球。
 配球のうまい花田が予測できないはずはなかった。
 甲子園のベスト8、ビハインドのまま最終回2アウトという状況が、彼の冷静さを失わせた。
 それもこれも、自分が大量失点してしまったせいだ。もし一、二点差だったのなら、ここまで味方が精神的に追いつめられることはなかったはずなのに。
 すべては自分の責任。それを思うと、周りのチームメイトとは反対に泣くに泣けなかった。
 高校生、最後の夏は後悔のうちに終わった。
 左腕の痛みとともに。

 試合が終わったその日のうちに、高城学園野球部は新幹線で帰路についた。
 疲れと悔しさと一定以上の達成感のためか、その道中、大半の選手がすっかり寝入っていた――ずっと窓の外を見つめる西野を除いて。
 その後、地元の駅で解散ということになったが、これで三年生の活動が完全におしまいというわけではなく、なまじ甲子園で活躍してしまったものだから、これからあっちこっちへ挨拶まわりに行かなければならない。それに、秋には国体も開催される。
 ベスト8で敗れたとはいえ、地元での反響は関係者の想像を超えるものがあった。今も大勢の人々が駅前に集い、選手たちに熱い視線を送っている。
 監督のかけ声のもと解散が告げられると、周囲からは大きな拍手がわき起こった。その温かい空気に包まれたまま、ある選手は両親のもとへ駆け寄り、ある選手は家族の待つ車のなかへ乗り込んでいく。
 西野はそんなチームメイトの姿を横目で見ながら、ゆっくりときびすを返した。
 自分に迎えがないことはわかっていた。今日は土曜日だが、会計コンサルタントをしている義姉は自宅で今も仕事をしているはずだ。養ってもらっている手前、変なわがままを言えるはずもなかった。
 自分が帰る方角と同じ友達はいなかった。幸か不幸か自宅が駅から近いことで、いつも駅でさよならだった。
 重たい荷物を両手に持ちながら、家へとまっすぐに向かう。今は、ひとりなのがかえってありがたかった。
 さすがにこの時期に野球用具をもって人込みを歩いていると目立つ。あれだけ試合で投げれば、テレビで見てこちらの顔を知っているのかもしれない。
 そういえば、黒いバッグに『高城学園野球部』と堂々と書かれているのだから、ばれて当たり前だ。
 自分はやれる限りのことをやったという自負がある。周囲からの視線はけっして不快ではなかったのだが、どうしても胸を張れない何かがあった。
 誇らしさと同時に一抹の後ろめたさを感じながら、商店街を抜けていく。
 いろいろな考え事をしているうちに、いつの間にか自宅のあるマンションの前まで着いていた。
 いつもは階段をのぼっていくのだが、今はそんな気分になれず、エレベーターを使って五階まで上がった。
 降りて、灰色の無機的な廊下へと出る。自宅へと向かう一歩一歩がいやに重く感じられた。
 姉は、どんな顔をして迎えてくれるのだろう。
 自分はどんな顔をすればいいのだろう。何を言えばいいのか。
 そうしたことすべてに考えが及んでしまい、妙な緊張感が増していく。
 期待と不安がないまぜになったままインターホンを押す。だが、そのいずれの感情もすぐに雲散霧消した。
 ――反応がない。
 留守だった。姉は外へ出かけているのだろう。
 言い知れぬ虚しさを覚えながら、西野は自分で鍵を開けた。
 扉の内側は暗かった。天井の明かりが自動でつくと、靴を脱ぎ、重たい足取りで居間へと向かった。
 荷物を床にどすんと置いたのと、玄関の扉が再び開かれたのはほぼ同時だった。
「洋平、帰ってるの?」
「…………」
 姿を現したのは、やはり義姉の桃子だった。仕事だったのか何なのか、フォーマルなスーツを着たままエプロンをつけているという不思議な格好をしている。
「お疲れさま。すごかったね、私の知り合いもみんな褒めてたよ」
「すごくなんかない。最後の試合、めちゃくちゃだったし……」
 なぜか憎まれ口を叩いてしまう。姉に褒められることに悪い気はしなかったのだが、今は素直になれなかった、なりたくなかった。
「でも、そこまで行けただけでも立派よ。あなたは本当にすごいことをやったんだから」
「ああ……」
 普通の家族ならなんということもない会話であるはずなのに、二人の間にはどこかぎこちなさがあった。
 現に、西野は姉とほとんど目を合わせようとしないという事実を、桃子のほうは以前から薄々気づいていた。
「俺は疲れたからもう寝るよ。夕飯はいいから」
「うん……」
 あたかも姉を避けるように背を向け、自室へと引っ込んでいった。それを見送る桃子の目は、どこか悲しげだった。
 西野は、ダイニングのテーブルに並ぶ豪華な食事に気が付かない。
 そして桃子もまた、義弟が無意識のうちに左腕を押さえていることに気が付かないのだった。

「内側側副靱帯損傷?」
 暗い声でつぶやいた西野は、ディスプレイに移された検査結果の画像と、目の前にいる白衣の男を揺れる瞳で交互に見た。
「ええ、その名のとおり肘の内側にある靱帯のことなんですが、そこを完全に傷めてしまっていますね。しかも、くり返し同様の怪我をしてきた痕が見られます」
 浜中医師はカルテから目を外し、西野のほうをまっすぐに見た。
「これまでも、何度も肘の違和感や痛みを感じてきたんじゃないですか?」
「確かに、軽い痛みだったらありましたけど……。でも、ピッチャーをやってればそれくらい当たり前だと思って」
「〝痛い〟って思った時には、すでにどこかを怪我してるものなんですよ。どんな些細な痛みでも、本来は放置しておいていいものではない、特に十代のうちはね」
「それで、先生」
 それまで黙って聞いていた監督の幸田が、口を開いた。
 夏の大会後、ずっと肘の痛みがとれない西野を説得し、病院まで連れてきたのは彼だった。
「怪我をしているのはわかりましたが、どの程度なんですか? その、すぐに治るレベルなんでしょうか」
 幸田の問いに、浜中は目をむいた。そこには、いくばくかの嫌悪の情も含まれていた。
「とんでもない。内側側副靱帯の状態もひどいですが、周囲の筋肉もかなり傷んでいます。正直、検査結果を見たときは肘を脱臼したんじゃないかと思ったくらいですよ」
「では、治療は……」
 浜中は、ふぅ、とため息をつき、うつむいた。
 一拍置いてから、監督の幸田ではなく西野としっかりと目を合わせた。
「もっと初期の段階で来てくれれば、比較的簡単な治療ですんだんですが……」
「内側側副靱帯の損傷なら、肘を固定するだけでいいと聞きましたが」
 と、幸田。
「ええ、軽度の場合は確かにそうです。しかし、今の西野くんのように他の部位の損傷を合併して起こしてしまっている場合は、それではどうにもなりません。このまま放置しておいたら、日常生活にも支障をきたす可能性もあります」
「そんな……」
 衝撃に、幸田は言葉をつまらせてしまう。
 それとは裏腹に、西野の表情に変化はなかった――表面上は。
 覚悟はしていた。
『可能性がある』ではない。すでに、日常生活にもその悪影響は出ていた。左手で茶碗を持つのもつらい。軽いランニングをするだけでも肘に響く。自分の左腕が尋常な状態ではないことは、薄々わかっていた。
 それでも病院へ行かなかったのは、怖かったからだ。
 現実を知るのが怖かった。
〝もう投げられない〟と宣告されるのが怖かった。
 だが、もはや鉈は振り下ろされた。どこにも逃げようはない。
「では、どうしたらいいのでしょうか。先生の見立ててではいかがですか」
 完全に沈黙した西野に代わり、幸田が緊張した声音で問うた。
 医師の浜中はすぐには答えようとせず、しばらくカルテを見つめたまま微動だにしなかった。
「はっきり言って」
 浜中が顔を上げた。
「私にはわかりかねます」
「どういうことです?」
「これまでの症例からいって、思いきって手術をしてしまったほうが治りが早いとはいえます」
『手術』という言葉に、西野がぴくりと反応する。
「ですが、それはあくまで可能性の問題です。確率が高いというだけであって、確実に治るというわけではないんです」
「では、手術をしなかった場合は?」
「もちろん、完治する〝可能性〟は低いです。ですが、治らないとも言い切れません」
「じゃあ、西野はどうしたらいいんですか? 我々じゃあ、判断のしようがありません。先生が決めてくださいよ」
「それは逆ですよ」
 少し苛立つ幸田とは対照的に、浜中はしごく冷静な声音で言った。
「医師としては、先ほど申し上げたことしか言えません。最近は、何かにつけて手術をしたがる外科医が多いですが、手術なんてしないですむんだったらしないほうがいいに決まってるんです。手術すれば完治する可能性は高いが、失敗したときのリスクも大きい。手術しなければ、もちろん逆です」
 浜中は西野のほうを見た。その目は、どこまでも真摯だった。
「今では、靱帯を移植することで治る確率は高い。でも、そうだな……十回に一回は失敗することも有り得ます。仮に手術が成功しても、その後のリハビリがうまくいくかどうかもわからない」
 若い選手の何割かは、厳しいリハビリに耐えきれずにやめていく、と率直に語った。
「しかも、君は周辺の筋組織までひどく痛めている……。最後は、本人に決断してもらうしかないんです。すべてを踏まえた上で」
「…………」
 西野は、浜中のまっすぐな視線を見つめ返した。
 その目には、驚くほどの力が込められている。
 ――こんな子は初めてだな。
 自分の怪我を知ったスポーツ選手の大半は、ひどく落胆する。その傾向は、それまでの実績に比例して強い。
 だが、目の前にいる西野という高校生は逆だ。まるで何かに怒っているかのように、かえって気迫が増している感さえある。
 ――もし怪我がなければ、一流の選手になれただろうに。
 この状態ではたとえ怪我そのものが完治したとしても、かつての輝きを取り戻せるかどうかは未知数だ。
 野球選手が〝投げすぎた〟ツケはあまりにも大きい。
 それだけに、こうしたことが起こるたびに、指導者に対する怒りが増してくる。
 ――なぜ止めなかったのか。
 その言葉が喉元まで出かかるが、あえて自重した。
 言っても仕方がない。監督を責めたところで選手の怪我が治るわけでもなく、また言ったところで直そうとすることはないのではないか。
 それほどに、今のスポーツ界の問題は根が深かった。
 当の幸田が、迷いつつも口を開いた。
「西野、どうする? 俺は手術を決断したほうがいいんじゃないかと思うが、お前しだいだ」
 監督の言葉にも、西野は反応しない。ただ、浜中のほうを見つめるだけだ。
 時計の針が30度ほど傾いてから、西野はおもむろに口を開いた。
「――しばらく考えさせてください。さすがに、すぐには決められないんで」
「そうか、そうだな」
 幸田は単純に納得しているが、浜中は予想外の言葉に驚いた。
 てっきり、すぐに手術を決断するものと思った。それだけの決意を感じたからだ。
 しかし、あえて最終的な決断を先送りにした。大切なことは、すでに自分のこころでは決めていてもじっくりと考える。この冷静な判断は、大人でもなかなかできないことだ。
 ――惜しい。
 失礼とは感じつつも、浜中の頭の中からはその思いがずっと離れないでいるのだった。

 時はすでに十月。
 夏の大会後も練習を続けた高城学園野球部は、県の代表として国体に出場した。大方の予想では、絶対的なエース、西野を欠いたチームは初戦から苦戦するものと思われていた。
 しかし、皮肉にも支柱を失ったチームは、それゆえにこそ、かえってそれぞれの選手個人個人が頑張り、これまでのものを超えるまとまりを見せ、躍動した。
 特に捕手・花田の活躍はめざましく、バッティングとともにリード面も冴えに冴えた。
 惜しくも決勝進出は逃したが、その躍進ぶりは賞賛に値した。地元では、甲子園で活躍したのと同等の注目を集めたほどだった。
 今年の高校球界をわかせ、高城学園を盛り上げた野球部も、国体の閉幕と同時に三年生は引退した。チームはすでに代替わりし、二年生が中心になって秋季大会を戦っている。
 西野がアメリカから帰国したのは、ちょうどその頃だった。

 久しぶりに立つ故郷は、妙に懐かしく思えた。
 いつもはうっとうしいと感じていた駅前の人波も、今はこの町の大切な一部のように感じられる。
 ゆっくりと階段を下りていく。動くとまだ腕に響くが、立ち止まるわけにはいかなかった。
 自らを呼ぶ声に気付いたのは、駅から少し離れたところにある公園まで来たときだった。
「お帰り、西野」
「大変だったな」
 そこにいたのは、女房役だった花田と監督の幸田だった。
「別に迎えに来なくてもよかったのに」
 家もすぐ近くだし、と西野。
「そう言うな。部のみんなもお前を心配していたんだ」
「監督の言うとおりなんだ。だから、お前のユニフォームを国体に持ってったんだし」
 幸田と花田が交互に答えながら、西野の重そうな荷物を手に取った。
 二人はあえて明るく振舞っていたが、西野の姿は想像以上に痛々しいものだった。
 左腕は完全に固定され、まるで動かせそうには見えない。大きな怪我であることはわかっていたつもりだったが、現実のその様子に衝撃を受けた。
「……リハビリはもう始めてるのか?」
「はい。ちょっとしたリハビリなら、ある程度はアメリカでやってきました」
「そうか」
 西野は、浜中医師のすすめで米国で手術を受けてきた。
〝本場〟で執刀してもらえばそれだけ成功の可能性が高まり、完治までが早くなる。医療の分野でも、過去の実績の差は経験の差となって表れてくる。
 ただしその分、費用は余分にかかることは必然だ。その手術と渡米に必要な資金は、野球部の後援会がカンパをして集めてくれたのだった。
 誰もが、今年の高城学園の活躍があったのは、西野のおかげだとわかっていた。皆がその復活を願っていたし、早く元の元気な姿を見たがっていた。
「まあ、焦らずにじっくりとやっていくことだ。たとえ今はつらくても、いつか必ず報われる。お前なら、怪我さえ治れば絶対にプロでも通用するから、今はとにかく耐えるんだ」
「わかってます」
 西野は、以前からプロ野球のスカウトが訪ねてくるほど注目を集めていた。
 しかし、故障をした後、一気に忘れ去られ、当然ながらドラフトにかけられることもなかった。
 社会人や大学のチームからの勧誘も皆無で、前から決まっていた地元の私立大学への推薦入学ということになりそうだった。
 皮肉にも、周囲の状況だけが〝甲子園以前〟戻った。
「西野、俺たちにもできることがあったら協力するから。キャッチボールができるようになったら言ってくれ」
「俺のことより、お前はどうすんだよ。進路、決めたのか?」
 西野の問いに、花田は表情を曇らせた。
 夏の大会でも国体でも、一定以上の成績は残した。実際、複数の大学や実業団から誘いは受けてはいるものの、もう十月になった今もこれからのことを決めきれないでいた。
「俺、別にプロになりたいなんて思ってないし……。正直、高校卒業した後も野球をやるなんて考えてなかった」
「じゃあ、やめるのか?」
「わかんねえ。やってもいいとも思うけど、なんつーか、これからは違うことをやりたい気持ちもあるし」
「――――」
 西野は〝もったいない〟と素直に思う。
 花田は本人が思っている以上に、野球センスが抜群だ。今はたまたまキャッチャーをやっているが、どのポジションをやらせても一級品だろう。
 このまま続ければ、自分よりもプロに近いのではないかとさえ思う。
 だが、あえて西野は何も言わなかった。
 その思いは、監督の幸田も同じだった。
「まあ、お前の人生だ。お前自身で決めるんだな」
「監督……」
「迷う気持ちはわかるんだよ。厳しい言い方になるが、プロになって活躍できる可能性が高いのでもないかぎり、これからも野球を続ける実質的な意味はそれほどないからな」
「監督は、野球を続けたことを後悔してるんですか?」
 西野が眉根を寄せて、幸田に問うた。
「いや、それはまったくない。当時は一度野球を始めたら、プロになれなくても引退まで実業団でやるのが当たり前だった。だがな、今は状況が違う。就職難だし実業団チームがどんどん解散してるのを見ると、とても野球を続けろなんて言えんよ。俺の教え子たちも、就職できずにフリーターになってる連中が多いからなぁ……」
 この前もある卒業生の相談に乗っていた、と幸田は悲しげに答えた。
「でも――」
「もちろん、夢を持つことは大切だ。でもな、西野。人間、地に足をつけて生きていかにゃいかんのだよ。ずっと雲を掴もうとしても事態が好転するわけじゃない」
「…………」
 西野は反論できなかった。
 夢をあきらめたくはない。しかし、いつかあきらめざるを得ない状況が訪れるかもしれない――どんなスター選手でも、やがては引退するように。
 それまでに覚悟できるかどうか。そもそも、どう覚悟したらいいのか。まだ自分にはまったくわからないことだった。
「ともかく、二人ともじっくりと考えることだ。焦ることだけはいかんぞ。焦っては何をやってもうまくいくもんじゃない。卒業までは近いが、時間ってのは意外にあるもんだ。落ち着いて考えればいい」
『はい』
「特に西野は、無理だけはするなよ。再発させてしまったら元も子もない」
「大丈夫です」
 しっかりとうなずく。自分の気持ちをコントロールすることに関しては、それなりに自信があった。
 とそのとき、スマートフォンの音が鳴った。幸田がうざったそうに、ズボンのポケットからそれを取り出した。
「……学校で何かあったみたいだな。悪いが西野、俺はいったん戻るわ。花田、荷物運んでやってな」
「はい」
 二人は、幸田の少し太った背中を見送った。
 このとき西野は、まだ未来への希望があるように思っていた。
 しかし、彼の本当の苦悩はここから始まるのだった。

 強烈な痛みを超え、吐き気さえ込み上げてくる。
 つらい、という次元のことではもはやなかった。あまりのことに頭が混乱し、訳がわからず、それがさらに苦悩に拍車をかける。
「我慢しろ。これくらいで音を上げてたら、復帰は遠いぞ」
 浜中医師の容赦ない言葉が飛ぶ。
 帰国し、日常を取り戻したはずの西野は、病院でリハビリを受けていた。
 しかし、それは想像を遥かに凌ぐものだった。
 患者が痛かろうが泣き叫ぼうが、医師や看護士は問答無用で患部のマッサージを続ける。
 痛みで頭がどうにかなりそうでも、決められたメニューを毎日かならずこなさなければならない。部活での筋力トレーニングなんて比ではなかった。
 今も、まさに肘の周辺を、浜中がみずからぐいぐいと強くもんでいるところだ。
「せ、先生……」
「なんだ?」
「血が……」
 あまりに激しい動きに手術跡の傷口が開いてしまい、けっして少なくはない量の血が流れ出していた。
 それは、腕の下に敷いたタオルを見る間に赤く染め上げていく。
「それくらい気にするな。後で縫えば問題ない」
 あっさりと言い放ち、躊躇することすらなかった。現に、マッサージの手は動き続けている。
 傷口の痛みより不安が増していき、本当に手術を受けてよかったのかと疑問ばかりが頭をよぎる。
 これだけのことをやっても、よくなる兆しはさほどあるわけではなかった。まだ左腕は思うように動かせず、手術前より体力も筋力も落ちていることは自分自身が一番よくわかっている。
 本当に治るのか、今はまだ見通しが立たない。
「不安か? 西野くん」
「……はい」
「誰でもそうだ。でも、そこで焦ったりあきらめたりしたら、それこそおしまいだ。それだけは忘れないように」
「……はい」
 西野はただ、歯を食いしばるしかなかった。

 病院から出てきた西野は、恨めしげに朱色に染まりはじめた空を見上げた。
 こんなに天気がいいと、野球がやりたくなってしまう。それなのにこころのどこかで、もう野球のことは考えたくないと確かに思う自分がいる。
 矛盾していた。それがどうにも歯がゆかった。
「ニシ」
「あれ? 春山……」
 病院前の通りにいたのは、かつてのチームメート、同級生でもある春山だった。
「なんだ、見舞いに来てくれたのか?」
「うぅん。ニシ、そういうの嫌いでしょ?」
「うん、まあ……」
「俺もここで」
 と、腰に手をやる。
「ああ、そういやあ春山も腰痛めてたな」
「うん、花田のほうはもう治ったって」
「あいつは、いろんな意味で丈夫だし」
 そこで、春山はなぜか言いよどんだ。
「どうした?」
「花田なんだけど……野球やめるって」
「――そうか」
「あれ? 驚かないの?」
「前に、迷ってるって言ってた」
「なんか、前から高校まででやめるつもりだったって」
「そっか」
「あ、ごめん。ニシはそれどころじゃなかった」
「いや、いいけど、春山はどうするんだ?」
「俺は……」
 黙り込んでしまった級友を見て、西野は苦笑した。
「この時期は、お互い難しいよな」
「うん……最初から進学決めてる奴が正直うらやましい」
 意を決して、春山は西野に問うた。
「ニシは、例の大学行くんでしょ?」
 返事は、すぐには来なかった。
「わかんねぇ。とにかく怪我が治る目処が立たないと」
「そっか」
 春山は、もう予約の時間だと慌てだした。
「また何かあったらメール出すよ。最近連絡がつかないってみんな言ってたから、たまにはニシからも出して」
「ああ」
 簡単に挨拶して別れると、西野は自身のズボンのポケットに手を突っ込んだ。
 その先にあるスマートフォンは、電源が切られたままだった。

 手術を受けてから六カ月近く。西野はようやく、腕に負荷をかけるトレーニングを始めていた。
 浜中のところにいる看護士であり、理学療法士でもある真野が、付きっきりでリハビリの指示を出す。
「きついかもしれないけど、頑張れ。手術よりもその後のリハビリのほうが大事だ」
「……きついないっす。これくらい前からやってた」
「そうか」
 言葉とは裏腹に、西野は汗だくで顔はしかめられたままだが、真野は取り合わなかった。
「じゃあ、次は下半身の強化を行う。君の場合、体幹の弱さが肘への負担につながったんだ。これからは、その辺を徹底する」
 真野の言い方はしゃくに障るが、すべて事実だった。怪我を治すには、こうしたことも黙って耐えるしかない。
 ――だが、先が見えない。
 毎日つづくのは、リハビリと称した厳しい基礎トレーニングばかり。つらく、憂鬱で、体を動かす楽しみなんてまるでない。
 未だボールを使った練習をできないでいることが、西野のこころをさらに追いつめていた。
「真野さん」
「なんだ?」
「――まだ投げちゃ駄目ですか」
「全然駄目だ。さっきも言ったけど、君は元から体づくりがなってないんだ。体の線が細いのに、目いっぱい全身を使ってスピードボールを投げていた。君にはその〝技〟があるのは事実だけど、それが関節を痛める結果につながった。それを忘れるな」
「…………」
 西野の態度から危険な兆候を察知した真野は、ことさらに厳しく言った。
「いいか。手術を受けてリハビリに失敗するケースのほとんどが、つらくてやめるか、我慢できずにプレイして再発させるかなんだ。君の場合、後者だ。もしリハビリのスケジュールを破ったら――再起不能になると思ったほうがいい」
「わかってます」
 本当にわかってるんだかどうだか、と思った真野であったが、それ以上言葉をつづけることはなかった。
 西野の顎からは、汗の雫がしたたり落ちている。

 最近、帰り道の足が異様に重く感じる。
 一方では『早く帰らなきゃ』と思いつつも、一方では帰った後のことを考えると憂鬱になる。
 相反する気持ちがこころを混乱させ、内側の闇を深くしていく。
 いつもは自宅のあるアパートの階段をダイエットも兼ねて自分の足で上っていくのだが、今はそんな気になれずエレベーターを使って五階まで行く。
 自宅のインターホンを押すものの、反応はなかった。嘆息しつつ自分の鍵で扉を開けると、玄関には義弟の靴があった。
「洋平、いるの?」
 返事はない。だが、人のいる気配はあった。
 適当に靴を脱いで居間まで行くと、そこでは義弟がソファに横になって寝ていた。
「やっぱりいたんじゃない」
「いちゃ悪いのかよ」
「…………」
 二の句がつげない。最近は、いつもこの調子だった。
 年も改まり、すでに二月になっていた。まだ寒さが残るとはいえ、暖冬なのか早くも春を感じさせる陽気だった。
 春といえば卒業と新生活の季節だが、洋平はその片方が欠落しそうだった。
「――ねえ、本当に大学のほうはいいの? 今からでも間に合うと思うんだけど」
「しつこいな。俺がいいって言うんだからいいじゃないか。もう決めたんだ」
「でも……」
 桃子は悲しげに、その柳眉をひそめた。
 洋平はすでに、推薦入学することになっていた大学への進学を蹴った。面接試験で落とされたわけではない。それに合格したにもかかわらず、入学手続きが必要になったこの二月に入ってから突然進学をやめると言い出したのだ。
 もちろん、周りは猛反対した。担任の教師や高校の監督はもちろん、進学先の大学の監督までがわざわざ自宅まで出向いて説得に当たってくれた。
 洋平がやけになっているのは、誰の目にも明らかだった。怪我そのものは順調に回復し、固定具はすでに取れている。しかし、〝投げる〟ということに関しては、順調からは程遠い状態だった。
 リハビリを始めてからもうだいぶ経つが、未だに左腕に力を入れられない。かなりの痛みもある。『復帰は早くて一年』と言われていたものの、それよりもずっと長くかかりそうなことは本人がもっとも感じていた。
『中途半端なことはしたくない。大学に入るにせよ実業団に入るにせよ、きちんと怪我を治してからにしたい』
 それが洋平の言い分だった。
 それは、単に強がっているだけとも言い切れないものがあった。甲子園ベスト8投手の誇りもあるのだろう。自分の情けない姿を世間にさらしたくないのかもしれない。
 そうした思いがわかるだけに、誰も強くは言えなかった。
 洋平はやけになってはいても、あきらめてはいない。現に、まだ厳しいリハビリを毎日続けていた。
 ――なんとかしてあげて、神様。
 いったい何度、神に祈っただろう。自身の大学受験の時でさえ神頼みをしなかった自分が、実際に神社へ行ってまでお願いをしてきた。義弟の必死な姿を見ていると、なんとかしてあげたいという思いがいやがうえにも募っていくが、自分にはどうしようもできない。神に祈るしかなかった。
 洋平は寝転んだまま、虚ろな目で窓の外を見ている。その横顔は、どこか悲しげですらあった。
 桃子は耐えられず、その場をあとにした。
 洋平に反応はない。

 あれから二年の月日が流れた。たったこれだけの期間でも、若い世代にとっては年寄りの十年、二十年に匹敵するほど大きい。高城学園野球部OBの面々も、それぞれにそれぞれの道を歩んでいた。
 いつも伝令役を買っていた春山は、意外にもアメリカへの留学を決断した。自分の選手としての才能に限界があることをわきまえていた彼は、プロのトレーナーになるべく専門的なことを学ぶためにアメリカの大学へ行ったのだ。
 一方、複数の大学や実業団から誘いを受けていた花田は、けっきょく野球をやめることを決断し、今はスポーツとはまったく関係のない大学へ進学して、のんびりとした学生生活を送っていた。
 そして、西野は――彼だけは状況が変わっていなかった。

「くそッ!」
 苛立ちまぎれに、右手のグラブを叩きつける。その周囲には、無数のボールが転がっていた。
 投げても投げても投げても、納得がいかない。リハビリが終わってから、もう一年が過ぎようとしていた。それなのに、自分の左腕は期待に応えてくれない。
 好調時には140キロ台がコンスタント出た速球も、今では120キロ台後半がやっと。これではプロどころか、大学の二部リーグですら通用しない。
 自分の野球人生は終わった。
 その逃れようのない現実が、胸に迫ってくる。それをすぐさま打ち消すように、西野は再びボールを手に取った。
 あきらめたくなかった。ここであきらめてしまったら、自分の人生そのものが無意味になってしまうように思えてならない。
 怖い。怖くて仕方がない。だから、こころの奥底では無意味じゃないかと思いつつも、必死に続けるしかなかった。
「西野くん」
 横合いからかけられた声に、ボールを拾うのをやめた。顔を上げると、そこには白衣ではなく背広をまとった浜中医師がいた。
「頑張ってるようだね」
「……自分にはこれしかないから」
「どうだ、調子は?」
「前と同じですよ。もう痛みもないし、ウェイトトレーニングでも問題ないんですけど、球が――ストレートが伸びないんです」
「そうか……」
 西野は汗をぬぐうと、浜中と正対した。その瞳には、浜中が気圧されるほどの迫力があった。
「俺はどうしたらいいんです!? 元の速球を取り戻すには、もっと筋トレとかやったほうがいいんですか!?」
「いや、それは違うよ。上腕の筋肉はもう十分についてるんだ。これ以上やったら、逆に再発させることになりかねないぞ」
「…………」
 沈黙するしかなかった。そのことは、自分でも感覚的にわかっていた。筋力の問題ではない。投球フォームの問題でもない。
 以前と〝何か〟がずれてしまったとしか言いようがなかった。
 うなだれる西野に、浜中はゆっくりと諭すように言った。
「焦るな、西野くん。前にも言っただろ? あの怪我だと、元の状態に戻るまでに長い場合は三年かかることもある。君の場合は、まだちょうど二年じゃないか」
「でも――」
 西野は、正論をかます医師をきっと睨みつけた。
「手応えがないんですよ。確かに一年前までは確実によくなってる感覚があって、それがうれしかった。でも、この一年は感覚的にも実際にも何の変化もないんです!」
「…………」
「これ以上何をやったらいいんです!? さっきも、今の練習方法のままじゃ駄目だって思ったところなんです。他に何をしたらいいんですか!?」
 すさまじい勢いで迫る西野に対し、浜中はけっして逃げようとはしなかった。
 彼は、言葉を慎重に選んでから告げた。
「――やれることはすべてやったよ。君はそれだけの努力をしてきたんだ」
「でも、結果が出ない努力なんて無意味じゃないですか」
「そんなことは……」
「僕にとっては無意味なんですよ、また野球がやれるんじゃないなら。――自分がいま頑張ってるのは野球のためなんです。他の何かが欲しいんじゃない!」
 浜中は口をつぐむしかなかった。
 ――相当にきてるな。
 気持ちは痛いほどわかる。選手にとっては変化がないということは不安を覚えるものだ、自分のやり方が間違っているのではないかと。
 だが、これ以上方法がないことはまぎれもない事実だった。現状、治療法として確立されていることはすべて試した。こちらとしても、できるかぎり彼の熱意に応えてやりたかった。
 もちろん、鍼や灸、整体などやってみる価値のあるものはいくつか残っている。しかし、それらが科学的な裏づけが足りないものである以上、別な面での余計なリスクがあった。
「今は堪えて練習を続けるしかないよ。とにかく焦らないこと。これを守って頑張ったら、いつか道が開けてくる」
 人が近づいてくる気配を感じ、浜中は話を切り上げた。
「誰か来たみたいだから、私は今日はこれで。何かあったら、すぐ病院へ来るんだぞ」
「はい……」
 西野の複雑な表情に浜中は不吉なものを感じたが、そのままグラウンドから去った――『打者へ転向したらどうか』という言葉をのみ込んだまま。
 そんな浜中の思いも知らず、西野が振り返るとそこには見知った顔がいた。
「ニシ」
「花田か……。お前、太ったんじゃないか?」
「久しぶりに会ってそれかよ」
 花田は苦笑いするしかなかった。
「どう? 調子は」
「ああ――変わらない。どうせなら悪くなってくれたら、あきらめがつくのに」
「おい、変なこと言うなよ」
 ボールを握りしめる西野の表情は、明らかに暗かった。かつてマウンド上で躍動していた頃を一番よく知る花田としては、別人ではないかと思えるほどに。
「ボール受けてやるよ。ミットも持ってきた」
「いや、いい……」
「どうして? もうだいぶ投げちゃったのか?」
「そうじゃないけど……今はいい」
 風にあおられてボールが転がる。花田は一度ミットを叩いてから、西野のほうを改めて見た。
「ニシ、余計なこと意識しなくたっていいんだぞ。俺は自分が来たいからここに来てるんだし、それに――」
「わかってる、わかってるって」
「でも――」
 相手のためを思い、食い下がろうとする花田に、西野は激昂した。
「うっせえなッ! まだ野球をやれるのにやめた奴にとやかく言われたくねえ!」
 はっとした西野は自分の言葉に驚き、そしてすぐに後悔した。
「……悪ぃ、こんなこと言うつもりはなかったんだけど」
「ニシ……」
 わずかな沈黙。二人のあいだを風が行き過ぎ、愚かな者たちをあざ笑うかのように木々がざわめいた。
「俺さ、ニシ」
「…………」
「実は、中学の時からもう野球をやめたかったんだよ」
「え?」
「だけど、野球のおかげで推薦してもらえることになったし、周りから続けたほうがいいって言われてたし」
「…………」
「それで、高校でも野球部に入ったんだけど、まさか甲子園まで行けるとは思わなかった。全部お前のおかげだな」
「いや……」
「でもさ、練習きつかったよな」
「あ? ああ」
「俺はいつも疑問を感じながらやってた。『なんでここまでやらなきゃいけないんだ』って」
 その疑問は、けっきょく最後まで消えることはなかった。
 過度の練習に意味があるとは、どうしても思えなかった。プロではない自分たちがすべてを野球に捧げないといけないことに納得することは難しかった。
「俺がそれでも頑張れたのは、これが最後だって決めてたから。だから俺の場合、初めから結論は出てた、周りに言い出せなかったけど」
「花田……」
「ニシ、野球以外の世界も広いって。俺は野球をやめろなんて言うつもりはないけど、たまには他のことも試してみろって。とにかく面白いこともあるから」
「そう、か」
 花田の言葉に嘘偽りはないと感じられた。彼らしいまっすぐなその態度は、以前とまるで変わりがなかった。
 彼の言いたいことはわかるのだが、自分の場合はまだ納得のいくところまで野球をやっていない。
 だから――まだグラブを置くわけにはいかなかった。
「今日はこれで切り上げるわ。ありがとな、来てくれて」
「……そっか。でも、無理はすんなよ。何回も言われてるだろうけど」
「確かに」
 西野は笑った。その笑みはまだ力なかったが、わずかな希望を感じさせるものでもあった。
 しかし、花田は西野の本心に気付いてはいなかった。
〝かつての女房役に自分の情けない姿を見られたくない〟、その思いに。

 早朝の新聞店は活気にあふれていた。
 人々が忙しなく行き交い、かけ声が激しく飛び交う。ここにいる誰もがてきぱきと無駄なく動き、手を抜いている者など一人としていなかった。
 中でも髪を無造作にまとめた女の子は、他の誰よりも活発で明らかに目立っていた。浮いている雰囲気はまるでなく、むしろ周りがそのエネルギーに刺激され、より活性化しているような感さえある。
 その彼女は、左足を少し引きずるようにして動いていた。怪我でもしたのか、それとも障害を負っているのか、脚の動きはどこかおかしい。
 もっとも、本人にそれを気にしている様子はまるでなかったが。
「真奈ちゃん、ありがとね。毎日手伝ってくれて」
「そんな、バイト代もらってるんだから、これくらい当然ですよ」
 店主らしい女性の声に応えて、真奈と呼ばれた彼女は笑顔で振り返った。その表情は屈託なく、周りを自然と明るくさせる。
「それにしても西野くん遅いねぇ」
「あ、でも、来たみたいですよ」
 真奈の視線の先には、とぼとぼとやってくるひとりの男がいた。
「西野くん、遅刻だよ」
「……ああ、わりぃ」
 声にも覇気がなく、気怠げな態度はいつものとおりだった。
「西野くん、すぐに頼むよ。少し時間が過ぎちゃってるから」
「はい」
 店主に急かされるように新聞の束を抱え、自転車に飛び乗った。
 西野は、新聞配達のバイトを始めていた。収入が欲しかったというのもあるが、それ以上に手持ちぶさたで家でじっとしてはいられなかったという理由も大きい。
 何もしないでいると、不安や鬱屈した思いがどんなに拒絶しようと込み上げてくる。そんな状態が一年も続くと、さすがにこころが耐えられなくなってくる。
 それに、今の自宅に自分の居場所はなかった。義姉と顔を合わせるのもつらく、できるだけ外にいたかった。
 新聞配達で早朝の町を走っていると気がまぎれる。この仕事は、基本的にひとりでいられることもありがたかった。今は、誰とも会いたくなかった。
 バイトそのものは苦にならない。というより今は、何か他のことをしていたかった――野球以外の何かを。
 元々、体力には自信がある。特に急いだというわけでもないのに、いつの間にか新聞をすべて配り終えていた。
 奇妙な喪失感を覚えながら帰路につく。いつもこの時間が嫌だ。この後、退屈で意味のない練習が待っているからだ。
 行きよりも遅いペースで走っていても、新聞店の建物はすぐに見えてきた。元から遠くへ行ったわけでもない。新入りの自分は、それほど広いエリアを任されているのでもなかった。
「終わりました」
「ご苦労さん。西野くんは、夕方もだっけ?」
「いえ。僕は午後、用事があるんで」
「そうか。じゃあ、明日また頼むよ」
「はい」
 ほとんどの配達は終わったというのに、未だ忙しく働いている店主にあいさつをしてから、西野は外へ出た。
「あ、西野くん」
「上原か……」
 道路へ出たとたん、帰り道の反対方向から真奈がやってきた。もうこのまま帰るつもりなのか、大きなトートバッグを肩にかけている。
「今から帰るの?」
「ああ」
「じゃあ、途中まで一緒に行こうよ」
「…………」
「私が歩くの遅いから嫌?」
「別にそんなことは……」
「よかった」
 真奈は屈託なく笑った。左足の障害はまちがいなく彼女のハンデになっているはずなのに、まるでコンプレックスを感じている様子がなかった。
 西野が答えに詰まったのは、今は人と話す気分になれなかったからだ。できれば、ひとりにしておいてほしかったのだが、ああ言われては断るわけにもいかない。
「今まで聞いたことがなかったけど、西野くんって普段は何をやってるの?」
 ――これだ。こういう質問が一番つらい。
「……野球だよ。一応だけど」
「へえ、野球かぁ。すごいね」
「すごくなんかない。無意味な練習をやってるだけだ」
「え?」
「なんでもない」
 上原に言っても詮ないことだった。一〇〇%、自分の問題だ。
「そういう上原は何やってんだよ?」
「私は福祉の専門学校に通ってる。誰かの役に立つ仕事がしたくて」
「……どうして?」
「だって、今までさんざん自分が周りの人のお世話になってきたし。大人になったら、いろんな人に恩返ししたいし」
 当然のことのように上原は言い切った。そのさらりとした口調からは、かえってその秘められた意志の強さを感じられた。
 ――じゃあ、俺はいったい何なんだ。
 つい上原と自分を比較してしまい、無性に腹立たしくなってくる。自分に対する嫌悪感。彼女と自分では、立場もその内面も差がありすぎた。
「……悪い、用事思い出した。俺、ちょっと寄ってくとこあるから」
「あ――」
 真奈が止める間もなく、西野は駆け出した。まるで自分から逃げ出すかのように。
 西野はただ走り続けた。
 今はできるだけ考え事をしたくない。体を動かしていれば、少なくとも考えすぎることはないはずなのだが、今日はなぜか余計な思考が止まらずに、さまざまな不安や葛藤が心中に現れては消えていった。
 気が付けば、すでに自宅近くの公園だった。肩で息をしながら膝に手をつき、自分の足元を見つめた。
 ――何をやってるんだ、俺は。
 自分の馬鹿な行動を思い返し、嫌悪感がこころの奥底から止めどなくわき上がってくる。
 意味のない行為、だらしない自分の姿。自身のあらゆる要素に辟易していた。
 しばらくは、何もする気が起きなかった。息を整えると上体を起こし、周りを見た。
 いつもと変わらない日常。しかし、それこそが今は最大の敵だった。
 変化がない。だから、変化がほしかった。
 西野は、足を踏み出した。逃げようとしても行くところはなく、最後はまた自宅へと戻るしかない。
 憂鬱な表情で鈍い足取りのまま歩いていく。今は、周りの喧騒がすべて苛立たしかった。
 自宅へ帰りたいわけでもないのだが、他に行くところはなかった。
 人を避け、階段を上がり、扉を開ける。
 そこは暗かった。灯りをつけながら、誰もいないことにどこかほっとした気持ちを抱いた。
「洋平? バイト終わったの?」
「……いたのか」
 自室へ入ろうとした瞬間、義姉が隣の部屋から出てきた。
「ごめんね。朝食すぐ作るから」
「いいよ。コンビニで買って食ったから」
 この頃、義姉は帰りが遅かった。仕事が立て込んでいるらしく、家に長くいることは少ない。今はそれがありがたかったが。
「じゃあ、これからまた練習ね。ごめんね、私も何か協力できたらいいんだけど」
「…………」
「洋平は余計なことを気にせずに野球を頑張って。あなたなら、きっとやれるから」 
「――変な気休めはやめてくれ」
「洋平……」
「あんたもわかってんだろう、俺の腕がもう元に戻らないことは! 俺だって、気付いてるんだ! 無理なものは無理だって……」
 西野が義姉に対して激昂したのは、これが初めてのことだった。
 たまりにたまった不安と苛立ちと焦り。それらが言葉の奔流となって吐き出されていく。
「腕を振れないピッチャーをどこが必要とする? 俺はもう役立たずのクズでしかないんだ!」
「でも、洋平……」
「あんたにとっても、俺は邪魔者でしかないんだろッ!」
 自分への失望と姉との疎遠があいまって、西野は暴発した。こころの内にあったものをすべて投げつけて、外へ飛び出していく。
 後に残されたのは、衝撃を受けたまま立ち尽くすひとりの女のみ。
 窓の外では、一羽の鳥が忙しなく飛んでいた。

 住宅地のど真ん中にある新聞店へと続く道は、どこまでも真っ直ぐで憂鬱になる。ただ、ゆるかな上り坂になっていて、それが単調なはずの道に変化を持たせていた。
 西野はうつむいたまま、その道をゆっくりと歩いていた。あのあと、自宅へ帰る気になどなれず、ビジネスホテルで一夜を明かした。
 自己嫌悪と自暴自棄が同時に襲いかかり、どうしようもなく体が重い。馬鹿なことをしたという後悔の念が、頭の中を駆け巡っていた。
 義姉に当たるつもりはなかった。確かに互いの関係はうまくいっているとは言いがたいが、それでも自分が世話をやいてもらっていることには変わりはなく、口に出して言ったことはないがこれまでもずっと感謝していた。
 それなのに、自分はただ不満や怒りを義姉に対してぶつけただけだった。
 ――情けない。
 それと同時に、やはり歯がゆい。すべての原因は、左肘の回復がうまくいっていないことにあった。
 ――この左腕さえ元に戻ってくれたら、全部うまくいくのに。
 その思いは、怪我をして以来ずっと抱えてきたものだった。それが己の情けなさを隠す言い訳にしかすぎないのだとしても、自分の目的が野球選手として復帰することにある以上、まずそれを達成しないことには次へ進めなかった。
「西野くん」
「うわっ、びっくりした……」
 背後から突然かけられた声に飛び上がりそうになる。慌てて振り返ると、そこには笑顔の上原が立っていた。
「おどかすなよ」
「フフッ、今日は早いんだね」
「ああ、昨日は遅刻しちゃったから」
 再び歩き出すと、真奈は西野の隣に来た。その歩みは、いつもより幾分早い。
「昨日はごめんね」
「え?」
「やっぱり、私が歩くの遅かったでしょ? 西野くん用事があったのに、私のせいで遅れそうになって」
「違う……」
「次はもうちょっと頑張るから、また――」
「違うって!」
 叫ぶと同時に歩みを止めた。隣では、真奈がきょとんとした顔をしている。
「違うんだ。用事があるって言ったのは嘘なんだ」
「え?」
 西野は、己の手を握りしめた。
 上原にだけは嘘をつきたくない、そう思った。
「俺は自分が嫌だったんだ。上原の話を聞いて、自分が情けなくなって……。ただ逃げ出しただけなんだよ」
 上原のような人といると、つい自分と比較してしまう。そして、自己嫌悪に陥る。それが他の何よりも重たかった。
「西野くん……」
「俺さ、野球でピッチャーやってたんだけど怪我して、それから元の状態に戻らないんだ」
 それで今でも無所属のまま練習を続けてるだけなんだ、と西野は自嘲気味に語った。
「甲子園で活躍したんだってね。昨日、初めて友達から聞いた」
「前にいい思いをしちゃうと、後がつらくなるだけだ」
「そんなことないと思う。いい思い出はいい思い出だし。そういうことがたくさんあるって、すごく素敵なことじゃない?」
「……でも、今とギャップがありすぎる。どうせなら、すべて駄目になってくれたほうがすっきりするのに」
「西野くん」
 いつもと違う声音を聞いて隣を向くと、上原が厳しい表情でこちらを見ていた。まだ付き合いは浅いが、彼女のそんな顔を見るのは初めての気がする。
「そんなこと言うもんじゃないと思う。世の中には、もっとひどい状態の人もいるんだよ。私からすれば、西野くんはすっごく健康に見えるんだけどな」
「…………」
 上原はこれまで何かを失敗したとき、自分の足を言い訳にしたことは一度としてなかった。そんな彼女にこう言われては、反論できるはずもなかった。
「あきらめるのは早すぎるよ。そんなに立派な体してるんじゃない」
「――俺だってあきらめたくないけど、どうにもならないんだよ。左の肘だけが元に戻らないんだ」
「あきらめたくないって言いながら、ほんとはもうあきらめてるんじゃないの? そうじゃなきゃ、さっきみたいな言葉、出てこないよ」
「…………」
「私、野球のことはよくわからないけど、他のポジションじゃ駄目なの? そんなにピッチャーってすごいポジションなのかな」
「それは……」
 野球は九人でやるスポーツ。だから、ピッチャーが外野を守ることもあれば、野手がピッチャーを務めることもある。ポジションに変にこだわるのはおかしいはずだった。
 それでも、自分は投手をしたい。それにこそ、最も大きな喜びを感じる。自身の正直な気持ちさえも否定するわけにはいかなかった。
 だが、それを声に出して言うには、まったくみずからの〝確信〟が足りていなかった。
「それに練習を続けてれば、いつか元に戻るかもしれないじゃない。あきらめることだけは駄目だよ、西野くん」
「そんなに簡単に割り切れるもんじゃない」
「割り切らなきゃ。世の中、すべてが自分の思いどおりになるわけじゃないんだから、どこかで割り切らないと、たぶん――いつか大失敗する」
 そして、自身が痛い思いをするだけでなく、周りにも迷惑をかける。すべてを求めた人間はすべてを失う。それは、ひとつの真実だった。
「……言いたいことはわかるけど、俺だって別にないものねだりしてるわけじゃないんだ。ただ、左肘さえ治れば……」
「でも、西野くん――」
「お前には俺の気持ちはわからない」
「西野くんも私の気持ちはわからないと思うよ」
「…………」
 ものの見事に返されて、反論の余地を失った。何か言い返したいが、何も言葉が浮かんでこない。
 西野が悔しげに唇を噛んでいると、前方に見知った顔の人物が立っていた。
「二人とも何してんの、早く来て」
「あ、すみません」
 新聞店の女店主だった。二人で話しているうちに、いつの間にかだいぶ進んでいた。
 西野は店主に促されるまま、すぐに仕事に取りかかった。こころの内に釈然としないものを感じたまま。

 野球場が二面もある広い公園には多くの樹木が植えられ、スポーツに興味のない人にとっても格好の憩いの場となっている。
 今も多くの人が散歩やジョギングを楽しみ、遊歩道は静かな活気に満ちていた。
 そんな中、ひとり黙々と走りつづける青年の姿は、事情をよく知らない者が見てもどこか浮いていた。
「西野くん、今日も頑張ってますね」
 白衣を着た看護士の真野が、どこか疲れた様子で言った。
「言わないんですか? 手術は失敗だったって」
 真野の物言いに、さすがの浜中もむっとなって睨んだ。
 この男は悪い奴ではないのだが、口が過ぎるところがある。
「失敗だったわけじゃない。肘の靱帯の再建は成功した。彼の場合、それ以外が問題なんだ」
「でも、リハビリもうまくいきましたよ。理学療法士の資格も持ってる俺が言うんだから、間違いありません」
「そんなこと言われなくてもわかってる」
 浜中の声はため息混じりだった。
「逆なんだ。リハビリがうまくいきすぎた」
「は?」
「なんで手術をしたあと、かえって調子がよくなることがあるか、わかるか?」
「そりゃあ、徹底的にすべてを見直すからでしょ? 食事から日常生活、体のバランス、トレーニング――」
「肩や肘の負担を減らすには、その周辺の筋肉を鍛える必要がある」
「だから、それはうまくいったじゃないですか」
「じゃあ、関節周りの筋肉が前とは比べものにならないくらいついたらどうなる?」
「それは……まあ、関節の可動域が多少変わりますね」
 それだ、と浜中は真野のほうを向いた。
「全身に筋肉がついて、前の体とはまったく別物だ。車でいえば、普通のスポーツカーがレース仕様の車に変わったようなものだ。同じ運転の仕方でうまくいくはずがない」
「じゃあ、体のバランスが狂ってるってことですか」
「バランスだけの問題じゃない。可動域が違うということは、フォーム自体を大幅に変えないとどうにもならない。でも、彼は〝昔の自分〟にこだわってる」
 手術をして、リハビリをすれば元に戻るという思い込みが、西野の現状を停滞させている。
「勇気を出して前に進むしかないんだ、こういうときは。だが、彼はどこかで現実から逃げてる」
 昔には、もう戻れない。だからすべてを変えて、以前よりいい自分にする。
 過去の栄光へのこだわりがそういした意識を弱めさせ、西野が本当の意味で成長する機会を奪っていた。
「十分前に進んでいると思いますけどね。あれだけきついリハビリを、文句を一言も言わずにやり遂げた人なんて初めて見ましたよ。プロでも、痛い、つらいってギャーギャー吠えてるくらいなのに」
 確かに。だからこそ、西野に肝心なことをどう伝えたらいいか逡巡していた。
 すでに頑張っている人間に、さらに頑張れと言うことは難しい。
「そろそろ戻りましょう、先生」
「ああ」
 二人が車に戻ろうとした頃、西野はランニングを終え、グラブを手にグラウンドへ向かっていた。
 これからの時間がもっとも憂鬱だ。走っているときは苦しさから現実を忘れられる。
 しかし、ボールを使った練習ともなれば、嫌でも今自分の置かれた立場を思い知らされることになる。
 我知らずうつむく西野がふと足を止めたのは、前方から声が聞こえてきたときだった。
「ちんたらやってるなぁ、社会人のくせに」
「まあ、クラブチームなんてこんなもんでしょ」
 グラウンドのバックネット裏辺りで、二人の中年の男が気怠げに話し込んでいた。
 その視線の先を追うと、一様に同じユニフォームをまとった選手たちが野球の練習を淡々とこなしていた。
 体格や風貌からして確かに社会人なのだろう。だが、動きはどこか緩慢だ。
 今日は他の場所で練習しようときびすを返しかけたとき、再び男たちの声が耳に届いた。
「最近はプロもアマもぱっとしねえな。チームも選手もろくなのがいない」
 細身の神経質そうな男が、苛立たしげに右足で貧乏揺すりしながら言った。
「こりゃ、どこも来年は期待できそうにねえな」
「プロのあのピッチャーも故障しちゃったし」
 隣にいる小太りの男が追従するように言った。
「ああ、あいつか。ったく、脆いんだよ、情けねえ。ちょっと登板が増えたからって1シーズンであっさり壊れやがって」
 立ち去ろうとしていた西野が、ぴたりと足を止めた。二人に気づいた様子はない。
「でも、六〇試合登板でしょ? いくらなんでも……」
「それをこなすのがプロだろうが。だいたい、壊れねえ奴は壊れねえんだから、それもピッチャーの能力だろ」
「それはそうだけど……」
「肩の張りがどうとか違和感とか、泣き言ばっかりだよな、今のピッチャーは。毎日のように登板してた昔の選手を見習えっつーの」
「昔とは違うでしょ。それに医学的には――」
「ああ、わかったわかった。肩や肘は消耗品だから、球数は抑えたほうがいいって奴だろ? でも、壊れねえ奴もいるじゃねえか」
「だけど、メジャーへ行ったあの有名なピッチャーだって早めに故障したし……」
 小太りの男は納得がいかない様子だった。
「俺は、少なくともアマでは投球回数の制限をするべきだと思うんだけどなぁ」
「なんで? 球数を初めから決めちゃったら、大事なところでマウンド降りなきゃいけないかもしれねえだろうが。しかも、大事な試合で投げられないかもしれない。登板する機会をルールで一方的に奪うほうがよほどかわいそうだろ」
「ええ? そうかぁ? なんかその言い方、違和感あるなぁ」
「なんで?」
「だって、故障して投げられなくなるほうがかわいそうでしょ」
「だから、それは本人の責任だろうが。思いっきり投げて壊れたんなら、本人だって納得してるだろ」
「そうかなぁ。ほら、地元でいえばあの、高城学園の」
「――ああ、左の西野だったか。確かにいいピッチャーだったんだけどな」
 思わぬところで自分の名前が出てきたことに、西野はびくりと反応した。
 もう行くべきだ。理性ではそれがわかっているのに、足はなぜか止まったままだった。
「彼だって頑張って投げ続けたら、かいそうに故障しちゃって。プロ入り確実って言われてたのに、今じゃどこで何してるのかもわからないし」
「お前もしつこいな。それも本人の責任だろうが。だいたい、あっさり壊れるほうが悪いんだよ。鍛え方が足らねえんだ、今の奴は」
 まったく、と男は吐き捨てるように言った。
「とんだ期待はずれだ。不良品だったな」
 男は、自分のほうに黒い物体が飛んできていることに気づいていなかった。
「あ痛っ!」
 ばしっという小気味のいい音のあと、何かが地面に落ちた。
 それは、野球のグラブだった。
 振り返ると、そこには投げ終わった姿勢の若い男がいた。
「てめえ、何しやがる!」
「……俺は不良品なんかじゃない……」
「何?」
「俺は故障したくてしたんじゃないッ!」
 西野が男に掴みかかった。
「本当は、腕が壊れる怖さがあった! でも、チームのために投げた! 仲間のために投げたんだ!」
 ただ驚く男の隣で、小太りの男がはっとした。
「こ、こいつ西野だよ……」
「…………」
 それがわかっても二の句が継げない。それほどまでに、西野の怒りは凄まじかった。
「お前に何がわかるッ!? ただ外で見てただけのてめえに何がわかる!?」
「おい、やめろ!」
 声を上げて駆け寄ってきたのは、医師の浜中だった。ちょうど車で通り過ぎようとしたとき騒ぎを見つけ、慌てて降りてきたのだった。
「それでも、俺は周りの期待に応えようとしたんだッ!」
「わかってる! お前の気持ちはわかってる!」
 浜中が抱え込むようにして西野を押さえる。
 やっとのことで男から離れた彼は、唇を激しくわななかせながら膝をついた。
「だったら……俺は……なんのために……!」
 大粒の涙をこぼす彼にかけるべき言葉を知る者は、今この場にはいなかった。
 それを離れた位置からいつにない厳しい表情で見つめる真野のさらに向こうで、たまたま通りがかった真奈が立ち尽くしていた。

 未明に雨が降った日の朝、薄く霧が立ちこめる中でも新聞の配達所ではいつものように忙しなく人々が動いていた。
「また西野くん、遅刻だねぇ」
 店主が呆れたように外を見た。
 そんな様子を見て、新聞に折り込みちらしを挟んでいた真奈が、はっとして顔を上げた。
「あ、きょ、今日は西野くん来ないと思います」
「どうして? 連絡来てないけど」
「あー、夕刊のとき、私に直接言っておいてほしいって頼まれてて。すみません、昨日のうちに伝えておけば……」
「ああ、大丈夫大丈夫。こういうときのために車があるんだから」
 笑顔で店主が外へ出ていこうとすると、ちょうど大柄な男が入ってくるところだった。
「あれ? 西野くん、来たの?」
「はい?」
「だって、真奈ちゃんが――」
「あ、西野くん、ちょっと」
 深く追求される前に、真奈が西野を外へ引っぱり出した。
「なんだよ」
「ごめん……」
「は?」
「ごめんなさい。私、やっぱり西野くんの気持ち、全然わかってなかった」
「いや、それは俺のほうこそ……」
「――昨日、あの公園にいて」
 はっとした西野は、ばつが悪そうに顔を背けた。
「変なとこ見られたな」
「ううん、そんなことない。西野くんのまっすぐな気持ちが伝わってきた。ああいうことって……大事だと思う」
「かっとなって八つ当たりしただけだ」
 と西野が言っても、真奈は取り合わなかった。
「私ね、ずっと足の障害がコンプレックスだった」
「…………」
「でも、それを認めずにごまかしつづけてきた気がする」
「ごまかせるだけでもすごいじゃないか」
「でも、たぶんそれじゃ駄目」
 そう言って西野のほうを見上げた瞳は、どこかいつもと違っていた。
「ああやって自分の気持ちをぶつけてどうだった?」
「……なんつーか、意外にすっきりした。それに、自分で驚いた。俺は、本当はこういう風に考えていたのかって」
「私は、今までそういうのがなかった。すべてを受け入れることが大事なんて考えてたけど、私自身が自分のことを受け入れてなかった」
 障害があってよかったなどと体のいいことを言って、みずからの本心を押し隠してきた。自分と向き合えないまま。
「だから、私も本当の気持ちを言わせてもらう」
 真奈の目には、どこか怒りに似た感情があった。
「西野くんは、それでも恵まれてると思う」
「上原……」
「私は、怪我をしてもまだ思いっきりスポーツができる西野くんがうらやましい。私も、いろんなことしてみたかった、いろんなとこに行きたかった、この障害さえなければ」
 左手は、左脚に触れられている。
 真奈の頬を、雫が伝った。
「あれ? なんで私、泣いてんだろ。ごめん、こういうこと言うべきじゃないかったかもしれないんだけど」
「――いや、言われて俺も何かわかった気がする」
 俺は、どこかで自惚れていたのかもしれない。
 自分だけが不幸なのだと、報われないのだと思い込んでいた。
〝うらやましい〟
 その一言に、はっとした。
 たぶん、自分よりも苦しい立場の人はずっといるのだろう。そのことに気づけずにいた自分は、ただ愚かだった。
「ちょっと! 何してるの、二人とも! バイトに来たんなら急いで」
「あ、はい! すみません」
 店主の声に慌てて涙をぬぐった真奈は、もう一度だけ西野のほうを向いた。
「ねえ、今度私が働いてるところに来てみて」
「働いてるって、バイトの掛け持ちしてんのか」
「うん。たぶん、西野くんにもいいきっかけになるはずだから」
 そう言ってメモ書きを西野の手に押しつけ、真奈は配達所の中へ戻っていった。
 そこには〝ひいらぎ寮〟と記されていた。

 秋も深まれば夜の風は冷たく、外出をするのはためらわれる季節になってきた。
 しかし、考え事をするにはこれくらいの寒さはちょうどいい。桃子は、とぼとぼと所在なく歩きながらも、ある一カ所に向かっていた。
 河川敷の一画に店を構えた屋台。今どき珍しい外観のそれが、薄明かりの中ぼんやりと暗闇に浮かんでいる。
「先輩」
 のれんをくぐると、そこには見知った顔があった。
「なんだ、また来たのか」
 客に対するものとは思えないぞんざいな声を返したのは、白髪混じりの中年の男だった。飲食業にはふさわしくない無精ひげなど生やしていたりする。
「またはないでしょ」
「お前、確か弟がいただろ。ほったらかしにしといていいのか」
「…………」
「どうも、そのことみたいだな」
 男は、コップにただの水を入れて差し出した。桃子が下戸だということは前から知っていた。
「先輩は嫌になるくらい鋭いですね」
「悟られたくなかったら来ないことだ」
「それが客商売をする人間の言う台詞ですか」
 この男、萩山は、以前桃子がとある企業で、会計士の仕事についてイロハを学んだ先輩だった。その後、なぜか突然脱サラして今の屋台をするようになった。
「弟がグレたか、女性問題でも起こしたか」
「そのどちらでもない。いっそ、そうだったらわかりやすいんだけど」
「じゃあ、なんだ」
 少し口ごもってから、それでも桃子は言った。
「スポーツをしてたんだけど、怪我をしてしまって。でも、なかなか治らなくて……」
「で、自暴自棄にでもなったか?」
「ううん、今も頑張ってる」
「じゃあ、問題ないじゃないか」
「でも、頑張りすぎてるっていうか、自分を追い込んでるっていうか……ああ、違う。そんなことじゃない」
「なんなんだ、いったい」
 桃子が、コップの中身をぐいっと煽った。中身がただの水であることにまるで気づいていない。
「前からなんかうまくいってなかった。お互い距離がありすぎて……自然に挨拶もできない」
「そうなることもあるのを承知で引き取ったんだろ?」
 本来なら、他の親戚に任せることもできたと聞いている。周りの反対を押し切って受け入れたのは桃子自身だ。
「でも……けんかするならともかく、こんな冷え切った関係なんて……」
「冷え切ってるねえ。そうは思わないけどな」
「え?」
 安いおでん種ばかり適当に選んで差し出しながら、萩山は言った。
「まだ一緒に暮らしてんだろ? 外へ出ていったならともかく、一緒にいられるならそれで十分じゃねえか」
「……それは……」
 そういう発想はなかった。だが、どうも釈然としない。
「どう声をかけたらいいかわからなくて、どう接したらいいか……」
「構いすぎなんじゃねえか? というか、お前、ああしてほしい、こうしてほしいって期待しすぎだろ」
「期待なんて……」
「じゃあ、弟にどうしてほしいんだ?」
「…………」
「どうせ、生真面目なお前のことだ。きちんと勉強してほしい、ちゃんと家族らしい会話をしてほしい、どうせならこちらを罵ってくれても構わない――そんな風に考えてんだろ」
 図星だった。何も言い返せない。
「全部自分のことばっかりじゃねえか」
「それは……」
「相手を思いやってやることも大事だが、本人にとってはそれが重荷になることもある」
「重荷……」
 皿に載ったおでんをやけ食いし、しばらくしてから桃子は大きくため息をついた。
「先輩って、どうしてそう人のことまでわかるんです?」
「昔の仕事と今の仕事のせいかな」
「はい?」
「世の中、いろんな奴がいる。ま、特に会計や保険がらみだと困ってる人が多かった。ただの経験だよ」
 少し気温が下がってきた。他の客が訪れる気配はない。
「……構わないほうがいいんですかね?」
「放っといてやれ。男は自分でなんとかするもんだ」
「でも、どうしても気になって」
「そこがお前の駄目なとこだ。いじればいじるほど壊れるものもあることをわきまえるんだな」
「……はい」
「それに」
 屋台なのになぜかぶどうジュースを出して、萩山は言った。
「弟を信じてやれ。頑張りつづけるだけでも本当はすごいことだ」
「はい」
 幾分気持ちが楽になった桃子は、それがワインだと思い込んで一気に飲み干すのだった。

 自身の両脇を町の風景が淡々と流れていく。しかし、その動きはすぐに止まった。
 河川の堤防沿いを走りつづけていた西野は、こうしてたびたび立ち止まっては考え事をしていた。
 今日は、どうしても集中力が散漫だった。いつもなら走っている間はふだんの焦りや苛立ちを忘れられるのだが、今日ばかりは異なる感情が胸中にあった。
 先日の上原とのやりとりが頭から離れない。
 ――俺がうらやましい、か。
 上原にそう言われると、何も反論できなかった。
 障害のせいであきらめなければならないことが多かったであろう彼女の半生を思えば、確かに今の自分は恵まれている。
 しかし、
 ――俺は、早くこの状況から脱したい。早く元の状態に戻りたい。
 いや、そういうことじゃない。結局は、もう一度思いきり野球をやれるようになりたいだけだ。
 他には何も望んでいない。今となっては、プロもその後の夢もどうでもよかった。
 ――だいたい、どうしてこんなことに。
 体よりも頭が疲れ果て、河川敷の階段に腰かけた。
 あの夏までは順調だった。あの大会までは。
 たった一度の怪我。人生初めての大怪我がすべてを狂わせていった。
 ――あれさえなければ。
 いったい何度そのことを考えてきただろう。今日だけでも、両手で数えるには指が足らないくらいだ。
 もちろん、今ではもうわかっている、自分の体のケア、連投、練習方法、そのすべてがいけなかったことは。
 いや、それ以前に意識に問題があった。いくら投げても大丈夫と、大丈夫なはずがないのにそう思い込んでいた。
 だけど、それでも故障しないピッチャーもいる。それがどうにも理不尽に思えてならなかった。
「はぁ」
「若い奴が明るいうちからため息をつくもんじゃねえな」
「若いから悩みが多いんですよ」
「それもそうか」
 そう言って笑った男は、なぜか作務衣にはっぴを着ていた。
「お前、どっかで見た顔だな」
「俺も、おっさんのこと見たことある」
「ああ、思い出した。夜もたまにこの辺走ってるだろ」
 西野は何も答えなかった。今は、練習のことにはあまり触れられたくなかった。
「なんだ、サッカーでもしてるのか」
「違うけど、今は怪我で……」
「そうか。昔の俺と同じだな」
 ふと、その一言が気になった。
「同じ?」
「俺はな、若い頃はけっこう有名な陸上の選手だったんだよ。だけど、膝が壊れたんでやめた」
 軽い口調で言って、ぽんと右の膝を叩いた。
「やめた? なんで?」
「ばかばかしくなった」
 西野は、目で先を促した。
「周りは期待するだけしといて、怪我したとたん、みんな手のひらを返しやがった。俺が悪いかのような言い方してる奴もいたな」
 男、萩山は自嘲的に笑った。
「ま、それは否定しない。確かに、俺の体調管理にも問題あった」
「でも、周りの態度がやめる原因だったんでしょ?」
「いや、そうじゃねえ。俺がばかばかしいって思ったのは、それまでの過程だ」
 萩山のため息は深かった。
「なまじ陸上の名門校に入っちまったからな。今じゃ考えられないスケジュールで毎日毎日練習してた。朝の五時起きで、学校の始業まで三時間、午後は私立だから早めに上がって三時から九時まで六時間。休日も朝八時から夕方六時まで。あほかって感じだよな」
「…………」
「本当にあほかって思ってた。それでも昔は就職できたからよかった。だけど、そのせいで今の若い連中みたいに職がなかったら――監督もコーチも学校も、何もかも恨んでただろうな」
「似たような話、聞いた」
「そうか。スポーツの世界じゃ、現実はこんなもんだ。一部のスターがいい思いして、あとは苦しむだけだ」
 西野の隣に腰を下ろした萩山は、言葉とは裏腹にどこか飄々としていた。
「お前は――その体格だと野球のほうか」
 軽くうなずいた西野を見て、再び視線を川のほうへ戻した。
「野球の世界はもっと特殊だな、日本の場合は。ピッチャーを酷使しても誰も何も言わない」
「…………」
「この国は、少数派の意見はすぐ黙殺される。みんな、成功者の話しか聞かない。素質はあっても、故障で消えていった奴なんて誰も見ようとしない」
「…………」
「一〇〇勝、二〇〇勝上げたピッチャーはいいだろうけどな。でも、そういう有名な奴らに限って成功できなかった選手のことは見ようとしない」
「それが嫌なら自分が成功するしかない」
 西野はあえて言った。
 今の言葉は、まったくそのとおりだと思う。だが、それが負け惜しみでしかないこともまた事実だ。
 自分は立ち止まりたくない。まだ、あきらめたくはなかった。
「おお、わかってるじゃねえか。自分を認めさせたかったら、自分の意見を通したかったら、何がなんでも力をつけることだ。すべてはそれからだな」
「…………」
「ま、お前はまだそんな五体満足の立派な体をしてるんだから、な!」
 西野の肩をぽんと叩いてから、萩山は立ち上がった。
「ああ、そうそう。幡野さんと岸浜さんって知ってるか?」
「いや……」
「前に言ったことを謝りたいってよ。悪意はなかったけど、ピッチャーの苦しみをまるでわかってなかったって」
 あのグラウンドにいた二人か。
 ということは、
「おっさん、最初から俺のこと知ってて……」
「周りは意外と見てるんだよ。それにわかってくれる。もっと視野を広くするんだな。マウンドに立ってるときのように」
 言うだけ言って、萩山はさっさと行ってしまった。
 あとには、なかば呆然としたひとりの青年だけがぽつんと残されていた。

 秋の適度な陽光が庭に降り注ぐ。落葉樹や常緑樹がそれを受け、静かに輝いていた。ここにいるのは老人ばかりだが、不思議な活気に満ちている。
「内藤さん、散歩に行きましょうか」
「ああ」
 真奈は杖をついて立っていた老人に声をかけた。男はぞんざいに返事をしたが、言われたとおり歩きはじめた。
 ここは、末期ガンなど重い病気を患い、しかも身寄りのない老人を引き取って、ともに暮らしていくための〝ひいらぎ寮〟という名の施設だった。真奈はここで、研修とバイトを兼ねて働いていた。
 隣を歩く内藤は、肝臓ガンで余命三ヵ月と宣告されていた。つい先日まで会社の経営者としてバリバリ働いていた反動か、絶望の度合いは他の人々よりもいっそう深いようだった。
「だいじょうぶですか? つらくなったら、すぐに言ってください」
「心配するな。まだ人の手を借りなきゃならんほど腐ってはいない」
 どこかつっけんどんに言い返すその言葉とは裏腹に、その足取りはおぼつかない。
 内藤の不機嫌はいつものことだ。これでもだいぶましになったほうで、入寮した当初は手がつけられないほど暴れていた。しかも、食事にいっさい手をつけようとしない。
 しかし、ひいらぎ寮に入ることを望んだのは内藤自身だった。彼自身、どこかで救いを求めていることは間違いなかった。
 寮の人々と徐々に打ち解けるにしたがって、内藤のこころも少しずつやわらいできたようだった。
「内藤さん、少し休憩しましょうか。いつの間にかけっこう歩きましたし」
「けっこうって、まだ十五分ほどじゃないか。私は問題ない」
「でも――」
「うるさい子だな。そもそも、どうせ私はすぐに死ぬ身だ。今さら我が身をかわいがってどんな意味がある。君もこんな無意味なことをしてないで、遊びにでも行ったらどうだ」
「そんな……。無意味なんかじゃありません。それに、内藤さんだって本当は――」
「うるさいっ! 私のことは、しばらく放っといてくれ!」
「あっ」
 内藤に突き飛ばされ、真奈が尻もちをついた。一瞬、内藤は罪悪感を表情に出したが、そのまま危なっかしい足取りで歩いていってしまった。
「痛ぁ……」
「だいじょうぶか?」
「西野くん……」
 横に人の気配を感じて振り仰ぐと、そこには西野がいた。右手を差し出し、起こしてくれようとしている。
「来てくれたんだ」
「ああ。さっき寮のほうへ行ったら、散歩に出たっていうから。ちょっと上原と話をしたくて」
「そ、そう」
 真奈ははにかんだ。前に話をして以来、互いに少し疎遠になっていた。それを、わざわざこうして西野のほうから訪ねてきてくれたことを、嬉しく思わないはずがなかった。
「にしても、ひどい奴だな。女を突き飛ばして放ってくなんて」
「内藤さんも悪い人じゃないんだよ」
「けど、女に八つ当たりするなんて……って、俺も人のこと言えないか」
 義姉や真奈に自分の苛立ちをぶつけたことを思い出し、こころの中で自嘲する。
「あの人、怒ってるんじゃなくて、怯えてるだけ。自分の先行きのことが不安で、それをどうしようもできないから苦しんでる」
 ――だったら、自分と同じじゃないか。
 男の遠ざかっていく背中を見て、自身と重ね合わせる。内側の不安が外部への攻撃へと転化する。あらゆる負の感情の発露に共通することかもしれなかった。
「それにしても」
「何?」
 西野にまじまじと見つめられ、真奈はこそばゆかった。
「お前、なんでそこまでできるんだ。俺なんて、自分のことだけでも精いっぱいなのに」
「私だって、いっぱいいっぱいで。でも、目の前に困ってる人がいるから」
 さらりと言ってのけたその一言に、西野は真奈の本当の強さを感じた。
「それにみんな最後はね、必ず『ありがとう』って言ってくれる。そう言われるだけで、なんか全部が報われるような幸せな気持ちになれる」
「――そうか」
「うん」
「俺は最近、誰かにありがとうって言ってもいないな……」
「それは駄目だよ。やっぱり感謝の気持ちだけは持たないと。それにね、言われたほうはほんの一言でもすごく嬉しいものなんだよ」
「ああ」
 すぐさま義姉の桃子の顔が思い浮かぶ。改めて考えてみれば、自分は姉にずっと支えられていた。家事はもちろん、無職の自分がまがりなりにもまともな生活ができているのは、義姉がいるおかげだった。
 だが、そのことにこころの底から感謝したことがあっただろうか。自分が義姉の足かせになっているのではないかと危惧したことはあっても、それは義姉への心配というより自分の立場への不安でしかなかった。
 どこまで行ってもわがままな人間。それがこれまでの自分だった。
「何でありがとうって言えるんだろうな。どうしたら言えるようになるのか……」
「素直になることかなぁ」
「それだけじゃ無理だろ。みんな、素直になれないから困ってるんじゃないか」
「うん。たぶん一番大事なのは、受け入れることだと思う」
「受け入れる?」
「誰でもいろんな欲があるでしょ。ああしたい、こうしたい、あれは嫌だ、これは嫌だって。でも、もしどうしようもできないことがあったら、たとえ不満でも受け入れるしかないじゃない」
「すべてを受け入れるってことか?」
「うん、何もかもを受け入れられたら、たぶん何かに悩むこともなくなると思う。だから素直になれるし、他の人に優しくなれるんだよ、きっと」
 現実を受け入れられない人間は、いつか爆発し自身を滅ぼしていく。世の中のいいことも悪いこともきちんと受け入れ、自分の中で受け止められたら、たぶん本人も周りもあらゆることから解放されるのではないか。
「私ね、やっぱり思うの、この障害があってよかったって」
 自身の左足をさすりながら、真奈が言う。
「私の障害は生まれつきだから、受け入れるしかなかった。でも、そのおかげで私は受け入れることの大切さを覚えられた」
「上原……」
「もしそうじゃなかったら、すごくわがままな人間になっていたかもしれないし」
「そんなことないと思うけど」
「そう? ありがと」
 真奈は屈託なく笑った。西野は、その笑顔が純粋にまぶしかった。
 自分はこれまで怪我のことを本当に受け入れてきただろうかと、自身に問う。受け入れたつもりが、けっきょく逃げていただけではなかったか。
 だから、成果が出ないことに苛立ち、周りに当り散らし、そして自暴自棄に陥った。
 もし本当に自分の左肘のことを受け入れていたら――もっと他にやれることがいくらでもあったはずだ。
 自分自身にも、友人たちにも、そして義姉にも。
「受け入れる、か……」
 西野は、自身の握りこぶしを見た。自分はこれまでどれほどのことを受け入れてきただろう、これからどれだけ受け入れられるだろう。
「なんでも受け入れればいいってわけじゃないよ。時には受け入れちゃいけないこともあるし、それに――」
「わかってる。上原のおかげでわかってきた。今までの俺は、何が大切か見えてなかったんだ」
「西野くん……」
 何か大切なものがようやく見えてきた気がした。少しずつだが、確実に視界の靄が晴れていく。
 もう一度、真奈に話しかけようとしたところへ、先ほどの内藤がややおぼつかない足取りで戻ってきた。
「あ、内藤さん。大丈夫でした?」
「――ああ。さっきは、その、すまなかったな」
「いえ。それより、そろそろお茶にしましょう」
 上原が横に寄り添った。
「じゃあ、西野くん。またあとで」
「ああ……」
 西野には、二人の後ろ姿を見送ることしかできなかった。
 ――人のために、か。
 口で言うのはたやすいが、実行するのはひどく難しい。それを当たり前のようにやっている上原は、やはりすごい人物だった。
 ともかく、これからどうしようと周囲を見る。きれいに芝生で覆われた広い庭は、そこにいる人々に突きつけられた現実とは裏腹に穏やかだった。
 その一画で、ひとりの少年とひとりの老人がキャッチボールをしていた。たった5メートルほどの距離で、白球を投げ合っている。
 なんの変哲もないキャッチボール。両方とも、はっきり言って下手だ。
 だが、その顔は輝いていた。
 投げるほうも受けるほうも、屈託なく笑っている。ここにいるということは、老人のほうは余命幾ばくもないのだろう。
 それなのに、そんな事実などお構いなしに楽しんでいる。
「――――」
 西野は、その姿に見とれた。
 ただボールを受け、投げる。
 それだけが楽しい。
 野球の原点がそこにあった。
「……俺は今まで何をやってんだ……」
 やっと、やっとこころの中の霧が晴れた。何が大切で何がそうでないか、やっと見えた。
 自分は今この瞬間、原点に立ち返ることができたと思う。
 そうとなればいても立ってもいられず、上原の姿を捜し求めて建物の中に駆け込んだ。
 ちょうど、そのとき一室から当の上原が出てくるところだった。
「上原!」
「な、何?」
 すごい剣幕で近づいてくる西野に圧倒されるがまま、大男に肩をがっちり掴まれた真奈は軽く揺さぶられた。
「やっと俺わかった! 上原のおかげだ、ほんとにありがとな!」
「う、うん」
「くわしいことはあとで! どうしても、今やっておきたいことがあるんだ!」
 そうやって一方的に言って、西野はさっさと駆け出していってしまった。その走りは、これまでのランニングさえも比較にならないほどの勢いがある。
 その後姿を見つめる真奈の目は、どこまでも優しかった。
 周囲では、女性看護士たちがにやにやと含みのある笑みを浮かべていたが。
 それに気づいた真奈は、顔を赤くして部屋にすぐさま戻っていった。

 自分は馬鹿だった。
 やっと目の前が開けてきたような気がする。否、いつも可能性の扉は開かれていたのに、自分はそれに気が付いていなかった。
 怪我をして以来、ずっと〝もう一度、あのフィールドへ戻る〟と思っていたが、自分は考え違いをしていた。
 フィールドはいつもすぐそばにあったし、それどころか自分はずっとそのフィールドに立ち続けていた。自分はもうマウンドに上がっていることがわからないでいた。
 マウンド慣れしていない選手が、前後不覚になるのと似たようなものだ。その滑稽な事実に、腹の底から笑いが込み上げてくる。
 ――だから、自分はたいしたピッチャーじゃない。
 なまじ甲子園で活躍したせいで、うぬぼれがあったのかもしれない。ピッチャーじゃなきゃ駄目だと思っていた。自分が怪我から回復すれば、プロでも通用すると思っていた。
 しかし改めて考えてみれば、その思いのどこにも根拠らしい根拠などない。
 自分は今この瞬間、現実を、自分自身を受け入れられたと思う。今すぐにでも新たな道へと進みだしたかった。
 目標はもう決まっている。まったく悩まなかった。ついさっきまでくすぶり続けていたことが嘘のようにすぐ決断できた。
 自宅のあるアパートまですぐ着くと、エレベーターに乗るのももどかしく、階段を三段跳びで駆け上がった。そして、鍵がかかっていないのをいいことに、扉を勢いよく開ける。
「姉さん!」
「ど、どうしたの?」
 居間にいた桃子が、義弟のあまりの剣幕に面食らった。
 しかし、自宅に姉がいたことをこれ幸いとばかりに、洋平は彼女に掴みかからんばかりに迫った。
「姉さん。俺、大学へ行くことにしたよ。大学へ行って、野球部に入って、もう一度初めからやり直す」
「洋平……」
 最初はただただ驚いていた桃子の顔に、すぐさま喜色が浮かんでいく。
 洋平が変わった。そのことだけは、すぐにわかった。
「俺は怪我が治らなければ、もう自分の可能性は閉ざされてるって思ってた。でも、そうじゃなかったんだ」
「そう、あなたはまだ野球をやれるし、それ以外のことだっていくらでもできる」
「ああ、そういえば花田もそんなこと言ってた。だけど、俺は今までそれがわからなかったんだ――ピッチャーにこだわりすぎてて」
 今は、なんのとらわれもわだかまりもなかった。あれだけ関係がこじれていた姉とも、こうして自然と話せる。それだけに、これまでのことがあまりにも馬鹿馬鹿しかった。
「だけど、姉さん」
「何?」
「俺はここを出て、一人暮らしをするよ」
「どうして……」
 桃子の表情から、笑みがすっと消えた。
「ひとりで生活すれば、自分が今までどれだけ甘えていたか嫌というほどわかると思う。そうなれば、今よりももっと姉さんに感謝できるようになると思うから」
 一瞬、間を置いたあと、桃子は答えた。
「――わかった。洋平がいなくなると寂しくなるけど、それがあなたの決めたことなら」
「ありがとう、姉さん」
 弟の言葉に、桃子は再び笑った。
「初めてかもしれないね、あなたが私にありがとうって言うのは」
「……う、悪かったとは思ってる」
「ほんとに?」
「ああ」
「それなら許してあげようか」
「偉そうだな」
 二人は笑い合った。そこには、もはや何のわだかまりもなかった。
「いい出会いがあったようね、洋平」
「うん、女友達なんだけど」
「なんだ、だったらちょうどいいじゃない」
「へ? なにが?」
 桃子は、今度は苦笑した。
 ――次は、別の面での成長が必要なようね。
 意味深な笑みに、洋平が憮然となる。それでも、桃子は理由を答えようとしなかった。
 二人の新しい生活はこれから始まろうとしていた。人生にはいくつもの再スタートがある。問題は、そこに至るまでの道程にあるだけだった。
 窓の外を一羽の隼が飛んでいる。明日へと続く方向は、本人にしかわからない。

eplogue

 快晴の春の日。雲もほとんどなく、まったく無風という珍しい今日は、まさに野球日和だった。
 せっかく地元のスタジアムが使えるというのに、観客がまばらなのは仕方がない。大学野球でも二部リーグ、しかも優勝争いとは縁遠い試合だった。
 それでも、期待に満ちた目でフィールドに視線を送る者たちもいた。
「ニシ」
 呼びかけられた声の先にいるのは、真新しいユニフォームに身をまとった西野だった。
「花田か……。授業はいいのか?」
「うちはまだ始まってない」
「それに――春山まで」
「やっぱり、ニシにはユニフォーム姿が合う」
 海外に留学していた春山は、つい先日日本に戻ってきたばかりだった。
「こいつ、成績優秀で早く卒業できるんだって」
「飛び級か」
「違うよ。普通にやれば、誰でも三年で卒業に必要な単位はとれるんだって」
 向こうは、それですぐ実際に卒業できるから、と春山は謙遜した様子もなく言った。
「だけど、ニシ控えなのか」
 背番号は二一。明らかに控え用のものだ。
「しょうがないだろ、まだ野手の守備に慣れてないし」
「ピッチングのほうは?」
 と、春山。
「やっと一三〇キロ台後半は出せるようになった。浜中先生のおかげです」
 花田らの後方にいた浜中医師に、帽子を取って頭を下げた。
「いや、私は野球の素人だから。看護士のこいつのおかげかな」
「こいつと言わないでください。これでも、隣町のクラブチームでコーチしてるんですから」
「もちろん、真野さんにも感謝してます」
「でも、意外だったよな、春山」
「うん」
 花田と春山が、二人で不思議そうにしている。
「何が?」
「ちゃっかり彼女つくってるし」
「は?」
「あれだけ悩んでたから、それどころじゃないと思ってたのに」
「いや、だからこそじゃないの?」
「おい」
「けっこう要領いいんだよな、ニシは」
「へ、変なこと言うな」
 周囲の視線は、横にいる真奈に向けられていた。
 どう答えていいかわからず、うつむいた真奈はただ黙った。
「上原は、別に彼女じゃない」
 その言葉に、はっと顔を上げた。眉間にしわが寄ってるのは気のせいか。
「こら、洋平。本人の前でなんてこと言うの」
「姉さん……って事実だし」
「はぁ、この子は……。ごめんね、真奈ちゃん」
「いえ、私は……」
 浜中まで意味深に笑っていた。
「なんだ、手が早いな、西野くん」
「リハビリも早かったですよ」
 関係のないことを言っている真野はともかくとして、西野はだんだんと行き場を失っていった。
「おい、西野。お前もちゃんと準備しとけ。今日の登板、あるからな」
「あ、はい」
 高城学園の幸田監督の後輩でもある野球部監督の声が救いとなった。
「じゃあ、行ってくる」
「ニシはもう頑張ってるから頑張れって言わないけど、無理すんなよ」
「わかってる。相変わらずいちいちうるさいな」
「うるさく言わないとリードのしようがなかった」
「あー、はいはい」
 憎まれ口を叩き合ってから、西野はきびすを返そうとした。
「あ、西野くん、これ」
 呼びかけた真奈の手のひらには、小さなお守りが載せられていた。やけにかわいらしいのがどうにも気になる。
「洋平、何か言うことは?」
「あ、ありがと……」
「これは西野くん、今日活躍するしかなくなったな」
「新婚バリバリのプロ選手の心境ってやつですか」
 真野の言葉は言い得て妙であった。
 周りのたちの悪いニヤニヤ笑いが収りそうにない。
「――とにかく、今やれるだけのことをやってみる」
「うん、そうしなさい」
 西野は、スパイクが土を噛む音を響かせながら走っていった。
 あのフィールドに向かって。